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終わりのない幻影




1、



「あんの、ばかたれが……」
 机の上に置かれていた、一枚の紙切れを握りつぶした麻生和馬は、怒りに全身を振るわせながら、小さく呟いた。
『しばらく留守にする。後は頼む』
 よく見知った字で記された、その書き置き。それの指し示す意味を考えると、その理不尽さに無償に腹が立った。
 和馬はその諸悪の根源をぐしゃぐしゃっと丸め、バジッと床に投げつけた。とは言うものの、所詮は紙である。実際には、かさっという音を立てただけで、それは単なるゴミと化した。
「なあにが、『しばらく』だ。ちったぁ仕事しろってんだ!」
 言った和馬の声は、誰もいない事務所に大きく響いた。
 長男長女は得てして面倒見がよく、責任感が強いと一体誰が言ったのか。この「麻生総合事務所」の所長たる麻生光輝に関しては、そんな言葉は当てはまらなかった。いや、以前――それこそ、彼が大学へ入ったころまでは、近所でも評判の「よくできたお兄さん」だった。眉目秀麗、頭脳明晰など四字熟語が連り、よく弟妹の面倒を見る麻生家の長男は弟の和馬の目から見ても、自慢の兄貴だった。
 それが、大学を出た後すぐに、こんな得体の知れない事務所を開業したかと思えば、ふらっとどこかへ行ってしまうようになった。たまに大口の仕事を二、三こなし依頼料が入ると自分の仕事は終ったとばかりに、旅に出てしまうのだ。おかげで、バイトのはずの和馬が、大学へ行く以外はこの事務所にいる羽目に陥っている。
 そして、二月の声を聞いたと同時に光輝は姿を消した。
「ったく、また俺に確定申告やらせる気かよ」
 去年もふらっと出ていったのは二月だった。こんなやくざな稼業ならば、はっきり言って申告など、まともにやらなくても、ばれはしないだろう。けれど税務署職員の父を持つ以上、そうも言っておられず、結局それは和馬の仕事になるのだ。
 和馬は深い溜息をつくと、来客用のソファーに身を沈めた。そして、意味がないとは知りながら天井を、きっと睨めつけた。
 と、コンコンッという、ノックの音が事務所に響いた。和馬は露骨にいやーな顔をすると、再度溜息をついた。光輝が事務所にいるときには、何故かほとんど客がここを訪れることはない。なのに、その姿が消えると、必ずといっていいほど客がくるのだ。それも実に面倒な依頼ばかりが。
「まったく、なんでいない時ばっか狙ってくるんだよ」
 ぶちぶち言いながら立ち上がった和馬は、そのまま乱暴にドアを開けた。そこには、とてもこの事務所に用があるとは思えないような、高校生くらいの少年が立っていた。
「どちらさま?」
「あ……れ、ここって、麻生総合事務所ですよね」
 ためらいがちに言った少年は、怪訝そうに和馬を見やった。その奇妙な反応に、和馬は首を傾げながら「そうだけど?」と短く言った。
 もともと、こんな事務所に訪ねてくる人間は、どちらかといえば、非日常に取りこまれてしまった人間ばかりだ。それも、その非日常を他人に解決してもらおうというのだから、事務所に訪れる時はいささか緊張気味であることが多い。
 けれど、この少年は、和馬の顔を見た瞬間、わざわざ『麻生総合事務所ですよね?』などと確認した。明らかに、違う人物が迎えてくれると思っていたようなその態度に、和馬はいささか不審なものを感じた。
「あの……。麻生さん、麻生光輝さんは」
 戸口でだんまりを決め込んでいる和馬に、少年はおずおずと、問いかけた。少年の口から出た兄の名前に、和馬はその接点を見つけられずに、すっと目を細めた。
「兄貴は、しばらく戻らないよ」
「えっ、みえないんですか?」
 愕然としたように言った少年は、うーんと唸り声を上げつつ「こまったなあ」と呟いた。
「麻生さん、こっちに来た時には、泊めてくれるって言ってたから、あてにしてたのに……」
 途方にくれたように言った少年は、ちらりっと和馬を見やった。
「兄貴が?」
 和馬がそう問うと、少年はこくりと頷いた。
「兄貴と、どういう知り合い?」
「前に、仕事でうちの方に麻生さんが来て、そん時に協力したって言うか――」
「うち?」
「ええ、長野なんですけど」
「長野……」
 最近、光輝が扱った依頼でそんな地域のものがあっただろうか。和馬は自分が処理してきた書類の山を脳裏に思い浮かべた。
「あの、弟さんなんですよね。麻生さんと連絡取れないですか?」
 その声に思考を中断させられ、和馬はむっとした。いや、中断させられた事ではなく、『連絡取れないんですか?』という言葉にむっとしたのかもしれない。連絡が取れるくらいなら、苦労はしない。その手段が無いから、いつもいつも貧乏クジを引くのは自分になるのだということを、和馬に思い出させたのだ。
「ちょっと無理だな。どこにいるのか、見当もつかない」
「――」
 黙りこんだ少年は、しばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「……あの、しばらく、泊めてもらうってわけには、いかないですか?」
「あのなあ。いきなり見ず知らずの人間が、泊めてくれってやって来て、そう簡単に泊めるバカがいると思うか? 大体、本当に兄貴と知り合いなのかも怪しいじゃないか」
「……だろ」
 俯いた少年は、和馬の言葉にぼそりっと呟いた。
「何だ?」
「仕方ないだろ! 本当は俺だってホテルに泊まろうかと思ってたんだ。けど、財布落としちまったし、こっちに知り合いなんていないしっ。麻生さん、いつでも力になるって言ってくれたからっ!」
 聞き返した和馬に、少年は思わず、叫んだ。そして、その後しまったと言うように顔を引きつらせた。説得しなければならない人間に向かって怒鳴ってしまった、自分に対する焦りだろう。
 少年のその反応に、和馬ははたと我に返った。
もともとイライラしていた所に、その根源たる兄の知り合いを名乗る少年が現れた事によって、いらつきに拍車がかかったのだ。少年は少年なりに、言葉を選んでいただろうに――。
「すまん。ちょっとイラついてて」
「――いえ、こちらこそ。無理なお願いしてるって言うのに」
 ぺこりっと頭を下げた少年に、和馬は小さく息をついた。
「名前は?」
「あ、すいません。俺、村瀬博貴っていいます。春からこっちに住むことになるだろうから、下宿探しに来たんです」
「春から、大学生?」
「見えないでしょ? よく言われるんです。童顔だって」
 言って、くしゃりっと笑った博貴に、和馬は仕方ないというように溜息をつくとドアを大きく開け放った。
「ここでよければ、泊まってもいいよ」
 どうせ、ここは事務所だ。仮にこの村瀬博貴と名乗る少年が光輝の知り合い出なかったにしても、取られるようなものなどありはしない。今までの資料はここにはないし、あってもPCの中だ。重要なデータに関しては、かなり強固なプロテクトがかけてあるから、特に問題は無いだろう。
「え? 本当ですか? うわ、ありがとうございます。助かっちゃうなあ」
 抱きつかんばかりの喜びように、和馬は思わず苦笑した。
「あ、ええっと、麻生……さん」
「和馬だ。麻生和馬」
「和馬さん、ちょっと、お手洗いをお借りしていいですか?」
 ちらりと時計に目を走らせた博貴は、落ち着かない様子でいった。
「あ、ああ。あっちの奥」
 博貴は和馬の指差した方向をちらりと見やると、大きな荷物を持ったまま奥へと入っていった。
「あいつ、なんで荷物まで持ってくんだ?」
 首をひねりながら言った和馬は、ゆっくりとドアを閉めた。そして、先程床に投げつけたゴミを拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。イラついていたところで、あのバカ兄貴が戻ってくるわけではない。ならば、怒っているだけ損である。
 ――と、また、コンコンッというノックの音が響いた。
「ったく。よく人のくる日だな」
 もう、いい加減どうでもよくなってきていた和馬は、「はいよ、どちらさま」と、いかにもやる気のなさそうに言って、ドアを開けた。
 そこには、一人の女が立っていた。和馬よりも少し上――二十五、六といったところだろうか。肩に少しかかるくらいの漆黒の髪と、凛とした顔立ち。いわゆる美人と称される人種だろう。和馬は、その女の顔を最近どこかで見たような気がした。いや、顔というより雰囲気が、だろうか。
 ぺこりっと頭を下げた女は、意思の強そうな瞳を和馬に向け口を開いた。
「お願いしたい事があるんです」
 その、どこか切迫した空気に、和馬は思わず顔を顰めた。なにか、とんでもなく面倒な話を切り出す時の依頼人は、大体こんな感じなのである。
 なんだかんだ言っても、光輝の仕事は確実だった。それは和馬も認めている事で、それゆえにかなり面倒な依頼というのも、ここには流れてくる。というよりも、最近では、同業者さえ「妙な依頼は麻生へ廻せ」といっている始末である。ようするに、他で手におえないような仕事はすべて、ここに廻ってくることになるのだ。
 認めたくはないが、光輝がいない今、そうそう複雑な依頼を持ってこられても対応など和馬にはできないだろう。
「今、所長が不在なんで、あまり複雑な依頼はお受けできないんですが」
「人を探して欲しいんです!」
 和馬のその言葉に、依頼を受けてもらえないと思ったのか、女は慌てて話を切り出した。
「人探し……ですか?」
「ええ。弟を探して欲しいんです」
「家出ですか?」
「――そう、です」
 その真摯な瞳に、和馬は天をあおいだ。人探し程度なら、なんとかなるかもしれない。和馬はとりあえず話だけでも聞こうと、彼女にソファーを勧めた。
「ええっと、失礼ですが……」
「ああ。申し遅れました。私、澤村綾香と申します」
 丁寧に頭を下げた依頼人――澤村綾香に、和馬は慌ててぺこりっと頭を下げた。進められるままにソファーに腰を下ろした綾香は、ハンドバックの中から一枚の写真を取り出した。そして、それを和馬の前に差し出す。
「これが、弟の博貴です」
「……」
 その写真を取り上げ、和馬は思わず目を細めた。写真の中で笑っているのは、綾香に似た雰囲気の少年だった。
「ええっと、大学生くらいですか?」
「いえ、高二です」
 和馬の言葉に、綾香は驚いたように目を見開いた。そして、そんな自分の反応を言い訳するように、肩を竦めて続けた。
「珍しいですわ。あの子、若く見られることはあっても、上に見られることなんて、めったにないのに」
「あ〜、まあ、そうでしょうね」
「えっ?」
 思わず和馬がこぼした言葉に、綾香は不思議そうに言った。
「いや、こっちの事です。で、弟さんを探して、おつれすれば良いんですね」
 確認するように言った和馬に、綾香は少し辛そうに目を伏せ、首を横に降った。
「いいえ。本当は、あの子を連れ戻したいわけじゃないんです。それよりも、あの子が持ち出したペンダントをなんとか、明後日までに取り戻して欲しいんです」
「家出した弟さんじゃなく、ペンダントがいる、と?」
 その依頼内容に、和馬は眉を顰めた。
 弟が家出をしたから、探して欲しい。これは、納得できる。だが、家出した弟は連れ戻さなくても良いが、弟の持ち出したペンダントは取り返して欲しいというのは、一体どう言うことだろうか。
「はい。それともう一つ、弟がもし見つかったら、しばらくこちらに引き止めて頂けると……」
「ペンダントはいるが、弟さんには家にいてもらっては困る、という事ですか?」
 和馬の問いに一瞬固まった綾香は、両の手をぐっと握り締めていた。その指先はだんだん白くなっていく。
「――いえ、その」
 歯切れの悪い返事に、和馬はふうっと小さく息をついた。
 本心の見えない科白。その裏には、実に面倒な事情があるように、和馬には見えた。単なる人探しならば、何とかならないこともないが、これは単純な家出ではない。
 こんな依頼を受けてしまえば、また苦労するのは自分だと分かっていながらも、和馬は口を開いた。
「……あの、差し支えなければ、事情をお話いただけないですか?」
 和馬の言葉に、綾香はぎゅっと唇をかんだ。そして、しばらく俯いていたものの、小さく頷くとゆっくりと口を開いた。



 和馬は、来客用のコーヒーカップを用意すると、インスタントのコーヒーをカップの中に入れた。時間があれば、ドリップしてコーヒーをたてるのだが、そんな優雅な時間など、ありはしなかった。
 ただのインスタントコーヒーでも、それなりのカップに入れれば、そこそこ美味しそうに見える。
和馬は綾香の前にカップを置くと、綾香の向かいにどかりと座りこんだ。
「澤村の家には五十年に一度、必ず執り行わなければならない儀式があるんです」
「五十年に一度の儀式?」
「ええ。田舎の古い家ですから、そういったものがあるんです」
 問い返した和馬に、綾香はこくりと頷いた。儀式などと言う、重苦しい言葉に、和馬は再度問い返した。
「儀式って、一体どういうものなんですか?」
「儀式といっても、たいしたものではないんです。蔵の奥にある、普段は絶対に開けない扉を開けて、舞いを奉納するというだけのものですから」
 綾香はたいしたものではないと言いながらも、どこか不安げに瞳を揺らした。そして、それを隠すかのように大きく息を吸うと、まっすぐに和馬を見据えた。
「ただ――。博貴が持ち出したペンダントが、その扉の鍵になっているので、あれがないと扉が開けられないんです。あれがなければ、儀式そのものが成り立たないんです」
「弟さんはそのことを知っていたんですか?」
「はい」
「弟さんは何故、そのペンダントを持ち出したのですか?」
「――」
 ぽつりぽつりと話し始めた綾香だったが、まだすべてを話すことにためらいを感じているようで、和馬の問いに黙りこんだ。バッググラウンドに、なにかがある。それを情報として引き出したくても、綾香の口は堅く閉ざされていた。
 そんな綾香に、和馬は小さく息をついた。多分、今彼女が話そうか話すまいか迷っているところが、すべてのネックになっているのだろう。
 このままでは、話は進みようがない。この硬直状態に、和馬はいいかげん辟易していた。多少無理をしてでも、必要な情報は引き出さなければならない。和馬はゆっくりと自分のカップに手を伸ばすと、しばらく思案した後、おもむろに口を開いた。
「弟さんは、その儀式自体の邪魔がしたかった。たとえ、ペンダントを取り戻したとしても、彼が家に戻ってくれば、それを邪魔しようとする。だから彼をしばらくここに引き止めて欲しい。そんなところですか?」
 和馬のその言葉に、綾香は硬直したまま、両の手をぎゅっと握り締め、俯いた。その反応は、和馬の科白を肯定していた。けれど、まだ綾香の口から言葉がつむがれることはなかった。
――あともう一歩だ。
 そんなことを思いながら、和馬は再度口を開いた。
「その儀式というのは、危険を伴う」
 突然そう言い放った和馬に、綾香はびくっと体を揺らした。その綾香の様子に、和馬は深いため息をついた。そして、厳しい表情を浮かべながら、続けていった。
「危険だと思われるのであれば、隠さずお話ください。でなければ、この依頼は受けられない」
「それはっ」
 突き放したような和馬の言葉に、綾香は、はじかれたように身を起こした。そして、一旦目を瞑ると、大きく息をついた。そして、しばらくの沈黙のあと観念したように口を開いた。
「扉を開けるのは、澤村家の未婚女性ということになっています。今度は私が扉を開ける役目をすることになったんです。でも、いままでこの扉を開けた人のほとんどは、そのあと一週間以内に亡くなっているんです」
「原因は?」
「分かりません」
 力なく横に首を振った綾香に、和馬は思わず黙りこんだ。
「――その儀式の意味は、なんだったんですか?」
「村の繁栄を祈っていたと言われてます。それと同時に、山神様の怒りを納めるため――と言う意味ももっていたようです」
 綾香は、そういうと一旦そこで言葉を切った。そして、コーヒーカップに手を伸ばすと、それをこくりっと一口飲むと、口を開いた。
「だから儀式をしなければ、山神様の怒りを買うことになる、と。でも、そんな馬鹿げた事があるわけないじゃないですか。五十年前の儀式のときは、今までのしきたりに逆らって扉を開けなかったんです。そうしたら、地鳴りや家鳴りが続いて……。しかたなく、儀
式をやることになって、扉を開けたそうです。そのとき扉を開けたのが、うちのお祖母ちゃんのお姉さんだったらしいんですけど」
 そこで一旦言葉を切った綾香は、すうっと息を吸うと再度口を開いた。
「お姉さんは扉を開けた瞬間に、倒れたそうです。お姉さんを助けに行った人も、そのあと亡くなったって。ただ、扉を開けた瞬間、地鳴りと家鳴りも止んだそうです。お祖母ちゃん、それを見てるから、山神様の祟りだって、扉は開けたくはないけど、開けなくちゃいけないって」
 黙って綾香の言葉を聞いていた和馬は、思わず唸り声を上げた。危険とはいっても、まさかそういう流れになるとは思っても見なかったのだ。
「博貴は、祟りなんてそんな馬鹿なことがあるはずがない、扉なんか開ける必要はないって言い張って。煮え切らない大人たちに、博貴は強硬手段にでたんです」
「で、鍵を持ち出したのか」
 和馬は言いながら思わず、溜息をついた。その溜息をどうとったのか、綾香は大きく頷いた。
「ええ。私も、まさか祟りなんてものがあるとは思ってません。だけど、なんだか不安ではあるんです。その私の不安が、博貴を煽ったのかもしれない。博貴が家を出て行ってから、両親は半狂乱になっちゃうし、お祖母ちゃんは倒れるし。私、もう、どうしたらいいのか分からなくて……」
 綾香は、そこまで言うと口を閉ざした。突然襲ってきた静寂に、事務所内が妙に寒く感じられた。けれど、空調は変わらずその機能をはたしていた。
「澤村さん、お住まいはどちらですか?」
 突然言った和馬に、綾香は小首を傾げたが、すぐに答えた。
「長野の滝川村です」
 和馬は、その地名に地図を思い浮かべようとしたが、すぐには浮かばなかった。それでも、そこから名古屋まで出てくる道程が決して近くはないことは、容易に想像がついた。
「何故、この事務所に見えたんですか? 長野のほうにもこういった事務所はあると思いますが」
「以前、叔母がこちらの所長さんに力になっていただいたと申しておりましたから」
――また兄貴か。
 今日は、ことごとく光輝がらみだ。和馬は、げんなりしながら綾香に気づかれないように溜息をついた。
「それにあの子が――博貴が、名古屋までの切符を買ったことが分かったので」
「そうですか。分かりました。できる範囲でお手伝いします」
「有難うございますっ!」
 言った和馬に、綾香はぱっと顔をほころばせた。そして、ふかぶかと頭を下げた。そのあまりにすばやい反応に、和馬は慌てて付け加えた。
「ただ、明後日ですよね……。そのタイムリミットに、間に合うとは言い切れないですから。それだけはお含みおきください」
「ええ。かまいません。よろしくお願いします」
 引き受けてもらえるだけで、かまわないと言うわけだろうか。綾香は再度頭を下げた。
「ああ、それから、そのペンダントの写真なんか、ありますか?」
「はい。もちろん」
 言った綾香は、再度、バックに手を伸ばし、写真を取り出して和馬に手渡した。




















「おい、こら。いつまで隠れてる気だ?」
 奥に引っ込んでいた少年――自称、村瀬博貴にむかって、和馬は言った。その言葉に、博貴はゆっくりと姿をあらわした。
「別に隠れてたわけじゃないですよ」
「嘘はつくは、偽名は使うは。そんなやつの言うことは信じられんな」
「俺、別に嘘はついてないし」
 けろっとして言った博貴は、和馬がなにも言う前にどかりっとソファーに腰を下ろした。
 そんな傍若無人な博貴に、和馬は憮然として口を開いた。
「大学生だの下宿だの言ってただろうが」
「俺は、『春からこっちに住むことになるだろうから』って言っただけで、別に今年の春から住むとは言ってないし、ましてや、大学生だなんて一言も言ってないよ。まあ、名前はおふくろの旧姓使ったけどさ」
「――何を威張ってるんだ。家出少年」
「仕方ないだろ、こうでもしないと、あのわけのわかんない扉開けるって聞かないから」
 家出少年という言葉に、博貴はむっとしながら言い返した。
「祟りは信じてないんだろ? だったら大丈夫だろうが」
「祟りは信じてない。けど、あの蔵は危険だって俺のカンが言ってる」
 真剣な表情で言ったの博貴に、和馬は博貴の前に腰を下ろしながら、続きを促した。
「だってさ、あの蔵ねずみ一匹いないんだぜ? 前にあの扉の前でひっくり返ってるのは見たことあるけどさ、生きてるのは今までに一度も見たことない。祟りなんかじゃないけど、あれは開けちゃいけないもんだ。大体、あの蔵のどん詰りに扉があること自体おかしいんだ」
「どういうことだ?」
 興味を示した和馬に、博貴はここぞとばかりにまくし立てた。
「扉のある位置ってのが、蔵の一番奥なんだけど、どう考えても、その奥に部屋があるわけないんだ」
「?」
「ええっと、和馬さん、なんか書くもん貸して」
 わけがわからないというような顔をした和馬に、博貴は言った。そして、紙と鉛筆を与えられると、四角をいくつか書いた。どうやら見取り図のつもりらしい。鉛筆で、その四角を指し示しながら言った。
「こっちが母屋で、少しはなれたこっちが蔵。で、蔵のすぐ裏手は山なんだ。ここにはまったく遊びがない。山に面しちまってる。で、蔵の建坪がこんなもんだとするだろ? したら、ここ、このどん詰まりに扉があるようなもんなんだ」
 博貴は言いながら、その壁に見立てたところに鉛筆でぐるぐるっと円を書いた。
「まったくスペースはないのか?」
「正確に測ったわけじゃないから、絶対とはいえないけど、多分ないと思う」
「ふ〜ん」
「何だよ、その気のなさそうな反応は」
 和馬のその反応に、博貴はむくれたように言った。和馬が話に乗ってくれていたように見えたのは、博貴の気のせいだったのだろうか。
「おまえさあ、何でここへ来たんだ?」
 突然の和馬の問いに、博貴はすうっと目を細めた。
「何で、そんなこと聞くのさ」
 和馬が意図するところが分からないわけでもない。けれど、すぐこたえる気にはなれずに、博貴は押し黙った。
そんな博貴にも、和馬はまったく気にする様子もなく、既に冷えてしまったコーヒーを飲み干した。そして、おもむろに立ち上がると、綾香に出したカップを引いて二人分のコーヒーを入れなおした。
 カップから、白い湯気が立ち上る。和馬は、無言のまま片方のカップを博貴の前に置いた。口を開こうともしない和馬に、博貴は落ち着かないように視線をさまよわせた。
 しばらく、意味のない時間が流れ、その沈黙に耐えられなくなった博貴は、小さく息をつくと重い口を開いた。
「――俺がこれもって逃げれば、家の人間が何するかなんて、分かってた。だったら、俺がこっちに向かったって分かるようにしておけば、麻生さんとこに頼みにくることは間違いないと思ったから」
 先回りしようと思った、とぽつりと言った。
確かに、それも理由の一つなのだろう。けれど、それだけではないはずだ。その博貴の本音が知りたくて、和馬は再度同じ問いを返した。
「だから、何故、ここに来たかを聞いてるんだ」
 和馬の視線はまっすぐ自分に向けられていた。その視線に、博貴は居心地悪そうに身を揺らし、俯いた。そんな博貴に、和馬はただ、黙っているだけだった。根比べのような時が流れ、やはり折れたのは博貴のほうだった。
「……助けて欲しいんだ。姉貴を」
 そこで一旦言葉を切った博貴は、大きく息を吸うと再度口を開いた。
「姉貴、今年の春結婚することになってるんだ。けど、あれを開ければ、それどころじゃなくなるような気がするんだ。だから、鍵なら俺が開けるって言ったんだけど、あれは代々女性の仕事だからって聞かないし――」
「聞いてたと思うが、俺はさっき澤村さんの依頼を受けた。おまえを助けるということは、依頼人の意思にそむくことになるが」
「なら、姉貴を見殺しにしろって?」
 和馬の言葉を遮って、博貴が冷たく言い放った。そんな博貴に和馬は苦笑しながら言った。
「誰も、んなこといってないだろ? 人の話は最後まで聞けよ」
 ゆっくりとカップに手を伸ばした和馬は、まだ熱いコーヒーを胃の中に流し込んだ。
「大体なあ、一週間で人探しなんて所詮無理なんだよ。それも自分の意志で動き回ってる人間探すなんて、かなり面倒なんだ。おまえがここになんか顔出さなきゃ、おまえの思惑通り儀式は出来ないまま終わったんだよ。なのに、おまえはここに来た。だから、確認したかったんだ。おまえの目的を」
一気に言った和馬は、博貴をまっすぐ見やった。
そんな和馬を見据えた博貴は、根底にある真情を吐露するように言った。
「たとえ鍵がなくても、うちの連中は、きっと儀式をやると思う。だから、俺の家出なんてそれほど意味はないんだ」
 言った博貴は、肩を竦めて見せると続けた。
「だから、あの儀式をやめさせるには、根本原因を取り除かなきゃいけないと思った。それさえ取り除ければ、そんな馬鹿げた事をしなくてもすむから」
「最初から、そういえば話は早かったんだよ。心情に訴えるようなことばっかり言ってるから、話がややこしくなる」
「んなこと言ったって、こっちは高校生だぜ? 普通、そっちのほうが落とせるんだよ」
「下手な同情で、仕事は受けない。最近特に妙な仕事が多いからな。んなことしてたら、命がいくつあっても足りん」
「……」
 この様子では、やはり協力を求めるのは難しいかもしれない。和馬の言葉に、博貴は黙りこんだ。そんな博貴に、和馬はにやりっと笑っていった。
「まあ、協力はしてやらんこともない」
「え?」
 和馬のその言葉に、驚いたように博貴が言った。何のかんの言っても、和馬が綾香の依頼を受けている以上、依頼人の意向を無視するとこは難しいということくらい分かっていた。だから、まさか本当に協力してくれるなど思っても見なかったのだ。
 そんな博貴の反応に、和馬はふっと笑みを浮かべた。
「協力して欲しいんだろ?」
 和馬のその言葉に、博貴はこくこくと首を縦に振った。
「オッケ。じゃ、その例の鍵を見せてくれないか?」
 和馬の言葉に、博貴はかばんの中から件の「鍵」を取り出した。
 それは、鍵というにはいささかこった作りの代物だった。長細い二等辺三角形のような形をしたそれは、底辺に穴があけられ鎖が通せるようになっていた。どうやら、天然石を加工したもののようで、小さな紫水晶が所々に埋まっている。
 これならば、確かに鍵というよりもペンダントと言った感じだろう。
 和馬は、綾香からもらった写真を取り出し、それと見比べた。多少黒ずんではいるものの、いま和馬の手の中にあるものと同じものだった。
「なんだよ」
 じっと写真と本物を見比べていた和馬に、博貴は不機嫌そうに言った。
「別に、おまえが贋物を見せたなんて、思っちゃいないよ」
「――思ってるんじゃないか」
「それは、被害妄想だ。んなことより、おまえ、調べもの得意?」
「まあ、それなりに」
「ちょっと気になることがあってな。調べて欲しいことがあるんだが」
「別にいいけど……」
 言葉を濁した博貴に、和馬は怪訝そうに首をかしげた。
「なんだ?」
「あのさあ、和馬さん俺の名前、ちゃんと覚えてる?」
「なんだ突然。澤村博貴だろ?」
「だったら、その、おまえっての、止めてくれない?」
 その言葉に和馬は「ああ」と呟いた。そして、決まり悪そうな顔をして言った。
「わるい。澤村さんと同じだから、ごっちゃになってな」
「……博貴でいいよ」
 ぽつりと言った博貴は、小さく息をつくと肩をすくめて見せた。「あのさ、和馬さん」
「なんだ?」
「なに調べりゃいいんだ?」
「……そういえば、そうだったな。とりあえず、その儀式があった年の前後で、滝川村近辺で何かなかったか――たとえば、そうだな地震や山崩れがなかったか、とか。あとは、村周辺の地図が欲しいな」
「OK。じゃあ、ちょっとパソコン借りる。あと、この辺の地図と金、貸して」
「地図と金?」
 すいっと手を出した博貴に、和馬は一瞬何のことだか分からなかったようで、きょとんとして問い返した。
「ネットで調べ切れれば良いんだけど、多分無理だから、図書館にでも行ったほうが良いだろ? でも、俺、財布ないから」
「財布落としたってのは、本当だったのか?」
 博貴がここへ来た時に言っていたことを思い出して、和馬が言った。最初に博貴が言ったことは、既に和馬の中で「嘘」だと認識されていたため、すでに頭の片隅にも残っていなかった。
「だから、嘘はついてないって言ったじゃん。信用ねえの」
 口を尖らせながら言った博貴は、大袈裟に溜息を一つついた。


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