雨崩れの空を一段下る |
Shinichi 1. |
すべて、上手くいっていたはずだった。 この時までは。 それが音を立てて崩れていくのが、分かった。 きっかけは何だったのか――。 いや、それは自分が一番知っていた。 ふいに触れた手が、すべてを狂わせたのだ。 虚を衝かれた、とでも言うのだろうか。何の心構えもなく触れた服部の手は、冷たく冷え切っていた俺の手にはとても暖かく感じられた。その暖かさが、恐怖を呼んだ。 何故、そう思ったのか、自分でも分からない。だが、危険だ、そう直感が告げていた。だから、その手を振り払った。 そう。 それが均衡を狂わす『鍵』だった。 「お前は、駄目だ」 何かを考えたわけではない。ただ、口からそんな言葉がこぼれた。そんな俺に、服部は息を飲んだ。 「駄目って、俺が、か……?」 「……」 返された言葉に、俺はただ沈黙を返した。 今までにも、こんな言葉遊びはよくあったというのに、何故、こんなにも過剰な反応を返してしまったのか。自分でも、何が駄目なのか、よく分からずに口に乗せた言葉。 わけの分からない感情が、自分の中で渦巻いていた。 服部からそらした視線の淵に、硬く握りこまれた服部の手が引っかかった。 「工藤っ!」 悲痛なまでな服部の叫びとともに、俺の身体は壁に叩きつけられた。打ち付けられた身体が、ぎしっと悲鳴を上げた。 奪われた自由に、俺は反射的に、服部の体を押し戻した。だが、その行動は服部を煽っただけらしかった。両の手をぐっと押さえ込まれるのと、ほぼ同時に服部の顔が近づいてきた。 スイッチを入れてしまったのは自分だ。 何故、いつものように振舞えなかったのか。そんな事を思ってみても、既に遅かった。 とっさに、それから逃れようと試みたが、腕力ではどうやっても服部に負けている事に思い至って、その動きを止めた。 目の前に――それこそ、触れるか触れないかの瀬戸際に服部の顔があった。 このままでは、何かが壊れる。そんな恐怖が、体中を駆け巡った。 「――今なら譲歩して、なかった事にしてやる。離せ」 動揺を押し隠し、できるだけ冷静に言ったつもりだったが、それが服部の目にどう映ったのかは、分からなかった。 だが、思った以上に効果はあったらしい。視線をそらさなかった俺に、服部は瞳に戸惑いの色を乗せた。 このまま服部が引いてくれれば、それで終わりだ。 そうすれば、今までと同じ――何も変わらない状態が続けられる。そんな淡い期待は、口元に浮かんだ服部の笑みに、掻き消された。 今まで見たこともなかった、その表情。 「そんなもん、俺の気持ちはもうとっくに追い越しとるわ」 どこか吹っ切ったように言った服部は、そのまま強引に唇を押し付けた。 「おまえ、何をっ!」 抗うように服部の身体を押し返したが、すべてが無駄だった。 「工藤――」 耳元で、服部の低い声が響いた。 ぞくりっと、悪寒にも似た感覚が背を走った。服部の声はこんなに低かっただろうか。 「工藤」 もう一度俺の名を呼んだ服部は、再度その唇をよせた。そして、次の瞬間、生暖かいものが強引に口内に割って入ってきた。 「は、服部っ!」 「黙っとき」 言った平次は、さらに深く口づけを重ねてきた。 抑えられた手首が、じくりっと痛んだ。もがけばもがくほど、その手が締め付けられる。 多少の痛みは我慢して、服部を押しのけると、ヤツの唇を噛み切った。 「っぅ」 小さく唸り声を上げた服部を、思い切り突き飛ばした俺は、ふらりっと立ち上がった。そして、床に転がっている服部をきっと睨めつけた。 そんな俺と目を合わせた服部は、その直後、すうっと目をそらした。 今まで、服部の考えそうな事は、大体理解できていたはずだった。 だが、目をそらした服部の感情を読むことは出来なかった。 『何故こんな事をした』 そんな言葉が、喉まで出かかって、止まった。 それは、聞いてはいけない。その答えを聞いたら、もう、二度と元のようには戻れない。そう、もう一人の自分が、そう言ったのだ。 どうすることも出来ずに、ただ、上から服部を見下ろしていると、服部がゆっくりと立ち上がった。反射的に、びくっと身を揺らした俺に、服部はその目をすうっと細めた。 俺をちらりと見やった服部は、躊躇いがちに口を開いた。 何か言いたげな、その表情。 だが、その口から言葉が紡がれる事はなかった。 ぎゅっと唇をかんだ服部は、無言のままくるりと踵を返した。俺に背を向けた服部は、そのまま何も言わずに部屋を出て行った。 そして、少しの間のあと、玄関のドアがばたんと閉められる音が書斎にまで届いた。 「バカヤロウ」 ポツリと呟いたその声が、異様に大きく聞こえて、俺は顔を顰めた。その言葉は、服部がいるうちに、ヤツにぶつけてやらなければならなかった言葉だ。 くしゃりと前髪を掻き上げながら、俺は壁に身を預けた。そして、ぐいっと唇をぬぐう。 怒りよりも何よりも、虚しさが、ココロを占めていた。 何故、こんな事になってしまったのか。 今までの、居心地の良い空間を壊してまで、服部は何が欲しかったのだろうか。 『何故こんな事をした』 先ほど、喉まででかかった、その言葉。 そんな事を聞いたところで、もう元には戻れない事は明白だ。それでも、聞きたいと思ったのは、服部の言い訳が聞きたかったのかもしれない。そんなものを聞いた所で、何にもなりはしないというのに。 どれくらいそうしていたのか。 外から、小さな雨音が聞こえ出した。 服部は傘を持っていただろうか。 ふと、そんな思考が頭をよぎったが、ぶんぶんと頭を振って、それを追い出した。 「ほっとけば良いだろ。あんなヤツ」 言ったその言葉は、空々しく部屋の中に響いた。 |