雨崩れの空を一段下る |
Heiji 1. |
パシン、と手が弾かれた。 「工藤……?」 工藤家の書斎。いつもと変わらぬ日常の空間。 その中での、ささいな出来事だった。 触れられた事でどきっとしていたのは、いつも自分の方。 偶然重なった手と手。その感触が相手のものとわかる前に、熱は消えた。 工藤は一瞬しまったという顏をして、まるで取り繕うかのように口にする。 「悪り……ちょっと考え事してて驚いたんだ。気にすんな」 何でもないように振る舞うその姿は、逆に違和感を強めるばかり。 普段から自然と身にまとっているはずの、あのポーカーフェイスはどこへ行ったのか。 すべてが、らしからぬ行動だった。 この反応をどう解釈してよいのか、わからない。 だけど、 「なんや、失礼なやっちゃな。普通やったら、俺のこと好きなん思うで」 自分の気持ちごと誤魔化すように言った言葉は、相手の思わぬ反応を引き出す。 「ばかなこと言ってんじゃねえよ」 口調はいつもの工藤。自分の戯れ言を流すかのような振る舞いも、常と変わらない。 でも、逃げていた。 どんな真実からもそらすことのない、あの瞳が。 ひょっとして怯えているのか。何に? 自分に? まさか……。 知っている? 俺の気持ちを……? 手が無意識に、工藤の頬に触れようとして、伸びた。 あと少しで触れる。そんな状況で、ビクンと空気が揺れた。はっとして、自分の手も止まる。 工藤は自分からふいと顏を反らすと、小さく言葉を紡いだ。 「お前は、駄目だ」 動きが、止まった。 「駄目って、俺が、か……?」 「……」 答えもなく、工藤は瞳を閉じた。 理屈ではない、直感だけが己の中を駆け抜けた。 きっと工藤は何もかもを知っていて。 その上での拒絶。 目の前にいる、自分を。 「工藤ーっ!!」 言い表せないいくつかの思いが交じり合って、その人の名を叫ばせる。 一気に高ぶった感情のままに、工藤を壁に押し付けた。いや、叩きつけたと言った方が近いのかもしれない。 振動で、後ろにある書棚の本がガタガタッと音を立てた。 工藤の体が跳ねて、押し戻されたのをさらに押さえ込み、そのまま唇を近づけた。 一瞬抵抗した工藤だったが、ふと動きが止まり、触れるギリギリの所で俺は工藤の顔を真近に見ることになる。 「今なら譲歩して、なかった事にしてやる。離せ」 初めて合わせた視線は、まるで自分を哀れんでいるかのようで。 こんな状況でも、工藤は優位に立つのだ。 まったくわかっていない。そのしぐさ一つが、どれだけ相手の心を騒がせているかなど。 そして、真実を捕らえているがゆえに、同じほどの反発を招いている事を。 自然に口元が、くすりと笑んだ。 「……そんなもん、俺の気持ちはもうとっくに追い越してるわ」 もうこの空間には、振り返るものなどなかった。 「降ってきた、か」 借りているマンションに帰り着く前に、ポツポツと落ちてきた雫が、渇いた道路を湿らせて行く。 天気予報でも、確かに降ると言っていた。 雨と傘のぶんだけ、自分と人の間の距離が遠のいてくれるのは良いことだろう。 おそらく今は恐い顏をしているだろうから。先程から道行く人間が視線をそらし、除けて行く様子が窺えた。 多分、鞄の中に入っているはずの傘。 持っていても、自分では差す気にはならなかったが。 ただの好きならよかった。 同じものを見て推理し、時に反発し合いながらも、一つの結論へと向かって行く。 それは、自分と工藤新一だから出来ること。 他の誰にもやれないことを、絶妙のコンビネーションで。 それは知識欲を満たしても余り有るほどに、ある種の興奮を呼び起こした。 けしてゲームで推理をしているわけではないが。いや、最初はそんな事もあったかもしれない。 だけど、工藤という人間の一見冷たく見える中にある葛藤を知った時、何かが大きく変わった。 安全な高見にいるわけではなく、ライン上で真実を解き明かす。 そんな事が出来るのは、恐ろしいまでの自制心の持ち主で。 普通ならば押しつぶされてしまうだろう、自分の身に起こった出来事にも、負けずに抗おうとしている。体の戻った今でも、狙われている事には変わりはないのだ。 何者にも屈せずに、立ち向かう姿。孤高のプライド。 魅かれずにはいられなかった。 助けになりたいと。だけど、いつしかその想いは、自分だけを見て欲しいという形に変わって行った。 視線、そして声、心、体。 傲慢だとわかっていても、その想いは自然に己を侵食して行く。 ゆるやかに、そして時には急激な流れで。 事件以外の事を面倒臭がる工藤は、やはり俺の存在をも、うっとおしがっていて。 それでも、側にいる事を認めてくれているのが嬉しかった。だから、 信頼を裏切ってはいけないと。 この気持ちを知られた時が最後だと。 そう思って、固く口を閉ざしていた。 だけど知っている。 こうなることを望んでいなかったわけではない。 あの時、どこか冷静な自分がいて、ふっと思った。 安心した、と。 「タチ悪いな」 呟いた言葉は、自分だけに言い聞かすように。 抱えた想いの重みに耐えきれなかった自分。相手に預ける事で、軽くなったことも事実。 唇をぎゅっと引き結ぶと、ズキリと痛みが走った。 鉄の味が口内に広がってゆく。 ふいに感覚と共に戻って来た、記憶。 俺は駆け出して、マンションへの道を走り抜けた。 一気に3階までの階段を昇りつめ、自分の部屋へ駆け込むと、後ろ手に荒々しくドアを閉め、そのまま持たれかかった。 打ち鳴らされる心臓。獣のような息づかいが、室内に広がる。 「ホンマ、最低や……っ」 握りしめ、扉に打ち付けようと高く上げた拳。 だけどそれは途中で、力なく落ちて行く。 俺はそのまま、ずるずるとその場に座り込んだ。 |