感じるはずのない、痛み。
 それは、記憶の中に囚われている、
 あるはずもない痛みだった。














【 囚われの記憶 7 】















 握り込んだ掌は、汗でベタベタだった。
 そんな左手の汗を、シーツで拭ったエドは、小さく息をついた。そして、そのまま、ころんっとベッドに横になると、ぼんやりと天井を見上げた。
 一年経った今でも、あの記憶だけは、こんなにも生々しい。
 リハビリ期間が辛くなかったと言えば、嘘になるが、それでも、記憶の中の痛みの方がより強く感じられた。
「情けねぇな」
 目を閉じるのが怖い。
 瞼の裏に焼き付いて離れない、あの記憶が、また襲ってきそうで――。
 両の手で視界を遮ったエドは、大きく息を吸うとゆっくりと目を閉じた。だが、今度はあの記憶が襲い来る事はなかった。かわりに、訪れた闇は、今度はゆったりとエドを包み込み、エドはほっと安堵の息を漏らした。
 この、あるはずのない痛みを取り除くには、元の身体に戻るしか方法はない。
 それなのに、どこか不安が付きまとっていた。
「ほんと、情けねぇ――」
 こんな身体になったのは、錬成に失敗したからだ。
 けれど、それは、錬金術がどうの、というわけではなく、自分が間違っていたから。そして、これから自分がしようとしている事もまた、間違いなのかもしれない。
 それでも取り戻したかった。
「たとえ、それが泥の川であったとしても――か。上手い事言うよな。あの中佐も」
 ぽつりと言ったエドは、すうっと目を細めた。
「でも、ま、泥の川ならまだましか」
 底なし沼でないのなら――。
 ふと脳裏に浮かんだそんな言葉に、エドは思わず顔を顰めた。
 縁起でもない。
 エドは、くるんっとベッドの上で丸まると、ぎゅっと目を閉じた。
 と、申し訳なさそうなノックの音が、室内に響いて。
 ひょこんと顔を出したアルは「兄さん?」と、小声で呼んだ。そんな声に、エドはむくりと身体を起こした。
「なんだ、どうした?」
「のど渇いてない? これ。飲んだら落ち着くかな、と思って」
 言いながら、アルはマグカップをエドに差し出した。ココアの甘い香りが鼻孔をくすぐって、エドは思わず表情を緩ませた。
「サンキュ」
 カップを受け取りながら言ったエドは、カップに口をつけた。
 甘い香りが口内に広がって、なんだかとてもほっとした。無駄に入っていた肩の力がふっと抜けた気がした。

 そうだ。
 弱音を吐いている場合ではないのだ。

 うんっと、大きく頷いたエドに、アルは首を傾げながら言った。
「どうかしたの? 兄さん」
「なんでもない」
 エドは言いながら、にっと笑みを浮かべた。
















「アルー。行くぞー。まだ、仕度できないのか?」
「ちょっとまって。今、いくから」
「ったく、何やってんだよ。アルの奴」
 ふうっと小さく息をつきながら言ったエドに、ピナコが重い口を開いた。
「やっぱり、行くのかい?」
「ああ」
 何のためらいもなく答えたエドに、ピナコは盛大な溜息をついた。聞かなくても答えは分かっていたのだが、それでも確認しておきたかったのだ。
「まったく……。言い出したら、聞かないのは、ちっともかわらないね」
 言ったピナコに、エドは小さく肩を竦めた。
 そんなエドを真っ直ぐに見やったピナコは、続けて言った。
「そのかわり。もうゴメンだよ。あんな得体の知れないものの片付けなんてね」
「分かってるって」
 こくりと頷いたエドに、ピナコは些か複雑そうな表情を浮かべた。
「兄さん。用意できたよ」
 ひょこんっと、玄関から顔を出して言ったアルに、エドはこくりと頷くと、ピナコを見やった。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけるんだよ」
「うん。ばっちゃんも元気で」
 言ったエドは、にぃっと笑いながら続けた。
「今度来る時には、ちゃんと元の身体に戻ってるからさ」
「なんだい、せっかくお得意様が出来たと思ったのにねぇ」
 にやりっと、人の悪い笑みを浮かべながら言ったピナコに、エドはふんっと鼻を鳴らした。
「冗談じゃない」
 言ったエドは、くるりと踵を返すと、ひらひらっと手を振った。





















 控えめなノックの音に、ロイは手にした資料から視線も上げずに「入りたまえ」と短く言った。
「失礼します」
「なんだね? 仕事なら、ちゃんとこうしてやっているぞ」
 入ってきた有能な部下に、ロイは手の中の資料を、ひらひらとさせながら言った。
「そんな事、威張っていえることではありませんよ」
「なんだ。監視に来たわけではないのか」
 ロイのそんな言葉に、ホークアイは、わざとらしく深い溜息をついたあと、ゆっくりと言った。
「――来客だそうです」
「来客? 私は今、忙しいのだが」
「そんな事言っていいんですか? お待ちかねの――」
 ホークアイの言葉に、ロイはがたんっと椅子を鳴らして立ち上がった。
「彼ら、か?」
「はい」
 その言葉に、ロイは口元に薄い笑みを浮かべた。
 あれから、一年の月日がたっている。
 彼らは必ず、ここに来ると確信していた。
 けれど、時がたてばたつほど、『本当に来るだろうか』と言う疑念が頭をもたげてきていたことも、確かだったのだのだが。
「彼らはどこに?」
「外に。ここに通しますか?」
「そうだな――。いや、私が行こう」
 言ったロイは、足早に目的地へと足を進めた。
 そして、階段に差し掛かったところで、エドの後姿が目に入った。
 この一年、待ち続けた、その存在。
 自然と口元に笑みが浮かんだ。
 階段を下りると、こつこつという足音があたりに響いた。その音に、エドの視線がこちらを向いた。そして、その瞳がロイを捉えると、ぼそりっと言った。
「よう、中佐」
 どこか挑戦的なその声に、ロイはにやりっと笑った。
 もう、自分は中佐ではない。それだけの時がたったのだ。
「君がもたもたしている間に、大佐になってしまったぞ」
 『もたもたしている』と言う言葉に反応したのだろうか。エドは、むうっとむくれた。そんなエドを見やり、ロイはすうっと目を細めた。
「覚悟はできたのかね?」
「なんなら、尻尾でも振ろうか?」
 きっと、ロイを睨めつけて言ったエドに、ロイはふっと笑みを浮かべた。
「よろしい。ならば、連れて行こう。セントラルへ!」
「セントラル?」
 そんなエドの問いかけに、ロイはちらりっとホークアイを見やると、ゆっくりと言った。
「少尉、これからの予定はキャンセルだ」
 そんなロイの言葉に、ホークアイは、またかと言うような表情を浮かべた。そして、肩を竦めると、小さく息をついた。
「仕方ないですね。何とかしましょう」
 即座に言ったホークアイは、この我が儘な上官のスケジュール調整をするべく、くるりと踵を返した。
 そんなホークアイの姿を見送ったロイは、その視線を再度エドに向けると、ぽつりと言った。
「機械鎧――か」
「んだよ」
「いや。なんでもないよ」
 機械鎧のリハビリには、相当期間を要する。とても、一年などですむような代物ではないはずだ。

 一年も待たされた――。

 こちら側から見れば『一年も』だろうが、リハビリをした当人にして見れは『一年しか』と言うのが正しい見解なのだろう。
 そこまでして、この場に来たのかと思うと、自然と口元が緩んだ。
「その、余裕ぶちかました笑い、やめてくれる?」
 言ったエドのその顔には、『面白くない』とでかでかと書いてあった。
 そんなエドの言葉に、ロイはにやりっと笑いながら言った。
「仮にも上官になろうという人間に、そう言う言葉遣いをしてもいいと思っているのか?」
「うっせーな。まだ、上官でもなんでもないだろ」
「そうだな。君が試験に通らなければ、確かに上官ではないな」
 言ったロイに、エドはふんっと鼻を鳴らしながら言った。
「そんなもん、余裕でパスしてやるよ!」
「ああ、そうしてくれ。ずいぶん、待たされたからな」
「ちゅ――大佐?」
 きょとんとしたように言ったエドに、ロイはにやりっと笑いながら言った。
「なんでもない。健闘を祈っているよ」






END




2004/05/22UP


















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【 囚われの記憶 7 】













*あとがき*

 「囚われの記憶」は、一応、ここで終了です。
 まあ、あれですね。出会い編ってことで(笑)
 本当は、もう少し、入れたいシーンとかもあったんですが、流れ的に蛇足になりそうだったので、カットしました。そのあたりは、もう少し深く書き込んでもいい、オフラインで書きます。

 しかし。ロイエドとか言いながら、ぜんぜんそんな感じの話ではなくて……。でも、これが綾部的には、始まりなのですよ。
 ってか、特に「7」。「うわ〜大佐ってば、エドの事、気にしすぎ!まじ!?」とか叫びながら書いてました。
 まあ、これは、出会い編なので、まだてれてれと、続く話があると思いますので、お付き合いくださいv
 感想なども、ありましたら、是非お聞かせください(切実)

2004/05/22   by 綾部