■ 南柯の夢 前編 ■
 A5フルカラー  76P 160g 平新
¥ 800  (210円)
Novel  綾部 澪
 / Illustration  小椋さよこ さま

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絶対に、この手を離してはいけない。
何故か、そう、強く思った。




1、


 目の前で、点滅し始めた歩行者信号を見やり、半ば反射的に歩調を速めたその時。首筋に鈍い痛みを感じた新一は、眉を寄せながら、その歩みを止めた。
 軽井沢の事件から、約一ヶ月。
 抜糸も済み、頭の傷自体はきれいにふさがっていた。けれど、ふとした折に、こうやって鈍い頭痛が現れる。傷がふさがったとはいえ、まだ完治したわけではないのだから、仕方のない事だとは思う。思うのだが、鬱陶しいことには変わりない。
 苛立ちを隠せないまま舌打ちした新一は、ちらりと腕時計を見やった。
 午後一時四四分。
 ここから目的地のササガワビルまでは、約五分といったところだろうか。約束の時間は二時だったから、まだ時間には多少の余裕があった。
 ついっと信号に目をやると、すでに、赤に変わってしまった後だった。諦めたように小さく息をついた新一は、足を止めた。
 後ろから来た高校生の集団が、行く手を阻んだ新一を邪魔くさそうに避けながら、変わってしまった信号など気にも留めない様子で渡っていく。
 そんな後姿を見送りながら、新一は再度、息をついた。
 口元からもれる、微かな息が白く揺れた。
 年の瀬に一旦緩んだ寒さが、ここへきてぶり返している。昨日の最高気温は、たしか四度程度だったが、今日はそれよりも冷え込んでいるようだ。
 ついっと見上げた空は、どんよりと曇っていて、今にも雨が降ってきそうだった。いや、この冷え込み具合からいくと、雪かもしれない。どちらにしても、あまり嬉しくは無い。
 そんな事を考えていた端から、ぽつりっと冷たい雨が頬をぬらした。ぱらぱらと落ちてきた雨が、新調したばかりのコートを濡らしていくのを見やり、新一はげんなりとしながら言った。
「ついてねぇ」
 あと、五分も歩けば、目的地に到着するというのに、今、このタイミングで降りださなくてもいいではないか。
 こんな事なら、少しぐらい無理をしても渡っておけばよかったかもしれない。そんな事を思いながら、再度空を見上げた。
 空の色はさほど変わりなかったが、重苦しい灰色に混じって、細かい水滴が落ちてくるのが見えた。同じように信号待ちしている人々は、皆一様に、落ち着かない様子で空を見上げていた。
 ようやく信号が変わると、そこに足止めされていた人々が、堰を切ったように流れ出した。突然の雨に背を押され、誰もが足早に横断歩道を渡っていく。
 それは新一も例外ではなく、微かに残る痛みに顔を顰めながら、すぐ目前に見えているササガワビルへと急いだ。