謳えない楽器





 コン、コン。




 あくまでも、控えめなノック。
 けれど、部屋の中の住人には届いていないのか、何の反応も返ってこない。しばらくまって、芦谷美咲は再度ノックした。今度はもう少し大きめで。



 コンコン、コン。




 室内の電気はついている。ということは、不在というわけではないだろう。なのに、一向に誰かが出てくる気配はない。
『麻生総合事務所』
 掲げられた看板と、手の中のメモをもう一度見比べ、美咲は小さく息をついた。間違いなく、ここのはずなのだが……。
『妙なやっかいごとは、麻生事務所へ』そんな噂を聞きつけてやって来はしたが、これではなんともならない。
 けれど、ここで帰るわけにはいかないのだ。美咲は、気を取り直して、再度ノックした。
「あのぉ、すいません。どなたか、いらっしゃいませんか?」
 と、部屋の中でがたがたっと物音がした。そして、少しの間のあと、ゆっくりとドアが開いた。
「申し訳ないが、今は、依頼は受けないことに――あれ? 芦谷さん?」
 部屋から出てきた男は、美咲を見やり驚いたように言った。
「麻生くん……。って、ここ、麻生くんがやってたの?」
 目の前にいるのは、高校時代の同級生、麻生和馬だった。まあ、事務所の名前が麻生なのだから、和馬の事務所だったとしても、不思議はないのだが。まさか自分の同級生が、いきなり探偵まがいの仕事についているとは、まず考えないだろう。
「いや、ここは兄貴の事務所。ま、俺もサポートで入ってるがな。で、芦谷さんは、なんで――って、こんな所来る理由は一つか」
「ええ。ちょっと頼みたい事があって」
「それ、いそぎ?」
「え……ええ」
「今、兄貴いないんだよな」
 ぽつりと呟いた和馬に、美咲はわけがわからないというような表情を見せた。
「一応、兄貴が所長ってことになってるから、所長の留守中は仕事、受けない事にしてるからさ」
「じゃあ、所長さんは――」
「あと、一週間は帰ってこないと思う」
「一週間……」
 一週間待てといわれれば、それくらいは待つ。けれど、出来ることなら、一刻も早く今の現状を何とかしたいというのが美咲の本音だった。
「ま、話は聞くよ。どうせ兄貴がいても、話聞くのは俺だから」
 言った和馬は、美咲を事務所の中に招き入れた。











「で、どういう事かな」
 和馬のその言葉に、美咲は持ってきたケースを机の上に置いた。見覚えのあるケースに、和馬はぽつりと言った。
「サックス?」
「ええ。でもよかったわ。ここにいたのが麻生くんで。こんな話信じてもらおうと思っても、信じられないだろうから、どうやって説明しようか困ってたの」
 ほっとしたような笑みを浮かべながら美咲が言った。
「私ね。今、北陽高校で教員してるの」
「ほう、そりゃ知らなかった」
 北陽高校は二人の母校だった。
「で、吹奏楽部の副顧問なんだけど――」
 美咲は、そこで一旦言葉を切ると、ついっと和馬を見やった。
「なんか、すごく嫌な予感がするんだが……」
「正しいと思うわよ。その予感」
「なんだって、そんなややこしい話もって来るんだよ」
 言った美咲に、和馬は思わず顔を顰めた。そして、内容も聞かないうちにそんなことを言った。
「手におえないから、頼みに来たのよ」
「――だろうな」
 忌々しげにサックスを見やった和馬に、美咲は肩を竦めた。



 ことは、五年前――和馬達がまだ北陽高校に在籍していたころに遡る。













「もう、そろそろ、閉めるぞーっ!」
 和馬の怒鳴り声が、今日も部室にこだました。
 現在の時刻は、八時十七分。高校生が『部活』で学校にいる時間にしては、遅すぎる時間だ。けれど、三学年で百十人を要する吹奏楽部では、個人練習やら何やらで、この時間まで残っている部員がごろごろいた。
「あと、五分っ」
 言った和馬に、あちらこちらで悲鳴があがる。ドタバタと楽器を片付け始めた部員を見やり、和馬は溜息をついた。
 北陽高校吹奏楽部は、山の上にあるこの学校のさらに山の上、旧図書館であった木造の建物全てを部室として使っていた。何しろ、旧図書館である。教室よりも大きい部屋が二部屋、かつては司書室か書庫だっただろうサイズの部屋が三部屋もある。部室のサイズとしては、とんでもなく大きなものだった。
 完全に校舎から隔離された部室は、教師が鍵を閉めに来るはずもなく、部室の管理は顧問と部長に任されていた。とは言っても、施錠はほとんど和馬の仕事になっていたが……。
 楽器の保管室となっている金管楽器庫、木管楽器庫、サックスルームすべでの部屋を施錠したころには、大方八時半になっていた。




「はらへったなー」
 七十段近くある階段を半分くらい降りたところで、一緒に部室を後にした杉浦亮がぽつりと言った。
「だな。とっとと、帰って――」
「麻生くん!」
 たたっと、階段を駆け上がってきた人影が、和馬の言葉を遮って言った。
「芦谷さん?」
「よかった。まだいてくれて。ごめん悪いんだけど、ちょっと鍵開けてくれないかな。忘れ物しちゃって」
 肩で息をしながら美咲が言った。どうやら、下から走ってきたらしい。
「何、忘れたんだ?」
「数学のテキスト。さっき、木管楽器庫で宿題やってて、そのまま忘れてきたみたいなの」
「OK」
 短く答えた和馬は、半分は下ってしまった階段を再度上がりかけた。
 ――と、その時、上の方でボーっという地を這うようなサックスの低音が聞こえた。和馬は不審そうに、亮と美咲を見やった。
「サックス?」
「でも、俺、全部見て回って鍵閉めたぜ?」
 顔を見合わせた二人は一気に階段を駆け上がった。
「ちょっと待ってよ。二人ともっ」
 そんな二人を追いかけ上まで上がり切った所で、またボーっと言う音が響いた。
「部室の中だよな」
「ああ。サックスルームの方」
 サックスパートが楽器を置いたり、練習に使っている部屋をサックスルームと呼んでいた。その音は、そのサックスルームの方向から聞こえた。
「やだ、気持ち悪い」
 和馬はポケットから鍵を取り出すと、正面入り口の鍵を開け、廊下の電気をつけた。
 和馬は、美咲に荷物をとってくるように促すと、自分はサックスルームへと足を向けた。鍵を開けて、電気をつける。
 もちろん、そこには誰もいなかった。
 首をひねった和馬は、後ろから覗き込んでいる亮を見やる。
「どうだった?」
 テキストを片手に持った美咲は、二人のほうに、和馬は中を見せた。そこには、変わらない静寂があった。
「まっ。気のせいだろ」
 言った和馬は、パチンと電気を消すと、鍵を閉めた。それでもまだ、不安そうにしている美咲の背を押しながら、亮が口を開いていった。
「気のせい、気のせい。もう遅いしさ。さっさと帰ろうぜ」
「う……うん」
 そう言いながらも、まだ視線はサックスルームの方に向いていたが、実際に遅くなってしまっている事は確かなので、美咲は不承不承頷いた。
 鍵を閉め、階段を半分ほど降りたとき、まるで、人が去るのを待っていたかのように、またあの低いサックスの音が響いた。
「気の……せい?」
 ぴたりと足を止めた美咲がぽつりと言った。
 何かが、後ろにいるような気がして、振り返る事は出来なかった。
「――確認しに、戻るか?」
 言った、和馬に、美咲はぶんぶんと頭を振った。
「も、いい。かえろ」
 言い終わらないうちに、美咲は階段を駆け下り始めた。明かに怯えている美咲に、和馬は口を開いた。
「芦谷さん、途中まで送ろうか?」
 山の上にある学校は、どうしても下に降りるまでの道が暗い。さすがに、これだけ怯えている人間を一人で返らせるわけにはいかないだろう。和馬の声に振りかえった美咲は、引きつった笑顔を浮かべながらも、気丈に言った。
「あ、大丈夫。下で待っててくれるから」
「そっか。じゃ、気をつけろよ」
「うん。ありがと。じゃあね」
 言った美咲は、たかたかと階段を駆け下りた。
 その時には、もうあの音は聞こえなかった。











          §       §       §




 美咲はゆっくりとケースを空けると、中の楽器を取り出して和馬に見せた。目の前に置かれた古ぼけたサックスを見やり、和馬はげんなりしながら言った。
「で? このサックスは、やっぱり例のヤツなわけ?」
「そう。例のヤツよ」
 その言葉を聞くと、和馬は溜息をつきながら立ちあがった。そして、ソーサーにある多少につまり気味のコーヒーをカップに入れると、美咲の目の前に置いた。そして、自分の分も用意して、美咲の前の椅子にどすんと腰を下ろした。
 ぐいっとコーヒーを煽った和馬は、再度口を開きかけた美咲の言葉をまった。











          §       §       §






 翌朝、いつもより五分家を出るのが遅れた和馬が、部室についた時には、既に五、六人の部員が、鍵が開くのを待っていた。
「麻生くん、遅〜い」
「わりい」
 口を尖らせていった、サックスのパートリーダー手塚亜紀に和馬は、両手を合わせて謝罪する。
 定位置に靴をしまうと、上履きに履き替え鍵を開けた。そして、それぞれの楽器庫の鍵を開けにさらに走る。一番奥の金管楽器庫の鍵を開け終えた時、亜紀の甲高い声が部室の中に響いた。
「誰よっ! 楽器出しっぱなしで帰ったのっ」
「どうかしたのか?」
 亜紀の声に、サックスルームに舞い戻ってきた和馬は、部屋を覗き込みながら言った。
「楽器出しっぱなしで、帰ったバカがいるのよ」
「出しっぱなし?」
 和馬は、亜紀の言葉を繰り返した。そんな事があるはずがない。昨日、和馬が確認した時には、サックスルームの中に楽器など出てはいなかった。
 部屋の隅に置かれている椅子に乗った、古ぼけたサックスを手にとった亜紀は、ほらねっと言うように、和馬に見せた。
「あれ? でも、これって誰も使ってない楽器よね」
 言って亜紀は首を傾げた。そんな亜紀の言葉に、和馬は苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
「どうかした?」
 黙りこんでしまった和馬に、亜紀は訝しげに問う。
「い……いや、なんでもない。とりあえず、注意しといて」
 薄ら寒さを押さえながら言った和馬は、そのままサックスルームを出ていった。
 注意もなにも、パートのメンバー全員に聞いたところで、知らないと言われるのがオチだろう。けれど、まさか、きのう和馬が鍵をかけた時には、なにもなかったと入ってはいけない。そんな気がした。
 昨日の事など忘れたかのような笑顔で部室に入ってきた美咲が、ぽんっと和馬の肩を叩きながら言った。
「おはよ。麻生くん」
「ああ、おはよう」
「どうしたの? 変な顔して」
「いや……あのな」
 歯切れの悪い和馬に、美咲はついっとサックスルームに目をやる。
「何かあったの?」
「いや、な」
 言って良いものか悪いものか考えていると、美咲はサックスルームを覗きこんだ。が、美咲には別段変わったところはないように見えた。
「あ、美咲。おはよー」
「おはよ。あれ? 亜紀なんで、そんな楽器だしてるの?」
 亜紀が使っているアルトサックスは、今年新規購入したばかりの楽器だった。けれど、今、亜紀の手の中にあるのは古ぼけた楽器。
「いやね。誰かがさ、出しっぱなしで帰ったらしいのよ」
「出しっぱなし?」
 いいながら、美咲は和馬を振りかえる。そんな美咲に、和馬はただ肩を竦めた。
「そう。まあさ、寒くても管割れするわけじゃないし、特に問題はないんだけどさ――って、どうしたの美咲」
 呼ばれて、美咲は慌てて亜紀の方に向き直った。
「あ……えっと、何でもない」
「美咲?」
 亜紀が訝しげに、美咲の顔を覗きこむ。
「さっき、麻生くんも、変な顔してたのよね」
 言った亜紀は、和馬の背中にちろっと視線を向ける。その視線を感じてか、和馬はそそくさとその場を離れようと足を進めた。
「あそ〜くん」
「あ、芦谷さん、ちょっといいか? 今度の演奏会の事でさ」
「あ、うん」
「こらあ、何で逃げるのよ!」
 亜紀の抗議の声が背後から飛んだが、二人はそれを無視して部室の外へと駆け出した。
「麻生くん、あれって……」
 昨日の帰りにあの部屋に何もなかったことは、二人ともが良く知っている事実だった。
「とりあえず、さ。見なかった事にしないか?」
「――そうね」
 事勿れ主義ではないつもりだが、これに関しては、勘違いだったと思うほうが、全てが丸く収まる。
 そして、この件は、二人が全てを忘れる事で片がついた。
 はずだった――。















          §       §       §





「また、同じことがあったの」
「……」
「でもね、あの時は、あれ一回だったでしょ? 今度は、何度も繰り返し起きて……。もともと、そういう手の話は多い部室ではあったけど、ここ二、三日は毎日だから、生徒達が怖がっちゃって」
 そこまで言うと、美咲は気を静めるように、目の前に出されたコーヒーを一口飲んだ。
「部室に人が侵入した可能性は?」
「ないわ。大体、泥棒でも入ったんなら、楽器盗むだろうし、もともとあんな古い楽器なんて、見向きもしないわよ」
「だろうな。でもな、そういう話なら、ここじゃダメだぞ。管轄外――」
「おねがいっ」
 言って、美咲はぺこりっと頭を下げた。和馬は困ったように、頭をがしがしと掻きながら、口を開いた。
「受けてやりたいのは山々なんだが……」
「お願いしますっ」
 まっすぐに和馬を見据える美咲の真剣な瞳に、和馬は深い溜息をついた。どちらかと言えば、怪奇現象に近いような依頼内容である。たとえ和馬が仕事を受けても、解決されるメドなど、ない。
 けれど、美咲はそれを承知で言っているのだろう。だとすれば、無下に断ってしまうのは、美咲にあまりに悪い気がした。ソファーにドサッともたれ掛かった和馬は、ふうっと軽く息をついた。
「――仕方ないな」
「受けてくれるの?」
「ただし、解決できるとは限らんからな」
「うん。ありがとうっ」
「じゃあ、とりあえず、この楽器預かっていいか?」
 和馬はサックスのケースをコンッと指ではじくと、美咲に向かっていった。「ええ」と、短く答えた美咲に和馬は満足げに頷くと、ふと思い出したように口を開いた。
「あのさ。手塚さんの連絡先知ってる?」
「亜紀の? えーっと、分かるわよ。ちょっと待って」
 バックから手帳を取り出した美咲は、ぱらぱらとそれをめくりながら、目的の人物アドレスを探す。
 そんな美咲を見やり、和馬は楽器ケースを開けた。そして、ひょいっと楽器を取り上げた。見た感じではこれと言って変わったところはない。しいて言うならば、あれから五年経った分だけ古くなった、というところか。
「とりあえず、様子を見るか」
「え? なにか言った?」
 ぽつりと呟いた和馬に、美咲はふっと顔を上げた。
「あ、いや」
 和馬は短く答え楽器をケースに収めた。そんな和馬に、美咲は肩を竦めながら、一枚の紙を和馬の目の前に突き出した。
「はい、これ。でもなんで亜紀の連絡先なの?」
「何かサックスパートの人間しか、知らないことがあるかもしれないからな」
 言った和馬に、美咲は小さく「そっか」と言った。そして、まっすぐ和馬を見やると、ぺこりっと頭を下げて言った。
「とりあえず、よろしくお願いします」















〜四日後〜

「麻生くんっ!」
「よお」
 部室へと続く長い階段を上がり終えると、そこに美咲がいた。ちょうど、パート練習をしている生徒となにか話していたらしい。和馬は軽く手を上げると、楽器ケースを掲げた。
「どうだった?」
「結論から言うと、何もなかったよ」
 和馬と、和馬の持っている楽器ケースを興味深げに見ている生徒達に気がついた美咲は「話は中で」と短く言うと、和馬を部室の中に招き入れた。
 和馬が在学中もそうであった様に、今でも木管楽器庫が来客の通される部屋になっているようだ。和馬は、通された懐かしい部屋の真中に置かれている、大きな机の上に楽器ケースを置くと、いかにも学校の備品らしいパイプ椅子にどかりと腰掛けた。
「とりあえず、この三日間は何の変化もなかった。これ以上、事務所に置いといても、無意味だろうから持ってきたんだ」
 部室では、毎日のように鳴り、ケースから抜け出したと言われる古いサックスは、和馬のもとでは何の反応も示さなかった。
「……そう」
 落胆したような美咲の声に、和馬はくすりっと笑った。
「まだ、お手上げってわけじゃないぞ」
 その和馬の言葉に、美咲は「え?」っと驚きの声を上げた。
「ちょっと実験をしたいんだ。ここで」
「実験?」
「そう。あの現象が起きるかどうか」
 にっと、意地の悪い笑みを浮かべた和馬に、美咲は首を傾げた。
「何かわかったの?」
「ん。まあね。だから、俺の考えが正しいかどうか、確かめてみたいんだ」
「分かった。で、何をすれば良いの?」
「別に、たいした事じゃない。楽器をもとあった場所において貰って、この小型カメラとレコーダーを置かせてもらえば」
「分かったわ」
 美咲は緊張した面持ちでそう言うと、しっかりと頷いた。どちらにしても、和馬が楽器を持ってきてしまった以上、学校のどこかに置いておかなければいけないのだ。結局、サックスルームにしか置けないだろう。
「あと、ちょっと、サックスパートの子に聞きたい事があるんだが」
「全員?」
「いや、パートリーダーだけで良いよ。悪戯に、怖がらせる事もないだろう?」
「そうね。ちょうど、最初に見つけたのも、彼女だし」
 美咲はすくりっと立ちあがると、問題のサックスルームへと足を向けた。
 一人取り残された和馬は、室内に飾られた大会の写真に目をやった。五年前と何ら変わらない、部室ではあったが、和馬が卒業してからの五年分の写真が、時間の流れを否応なく見せ付けていた。
「失礼します」
 そんな声が、和馬を現実に引き戻した。ついっと、ドアの方を見やると、美咲と真新しいアルトサックスをストラップにかけたままの生徒がいた。
「はじめまして。あの、ペットの麻生先輩ですよね」
 ぺこりと頭を下げた少女にそう言われ、和馬はちらりと美咲を見やる。同じパートの後輩ならともかく、違うパートの後輩までが自分を知っているなどと言うことがあるわけがない。
「芦谷さん、なんか言ったの?」
「麻生くんって、結構有名なのよ。演奏会とかのビデオも残ってるから、顔も知ってるみたいでね」
 肩を竦めた美咲は、言いながら椅子に腰掛けた。そして少女にも、座るように促す。
「えーっと、一つ聞きたいことがあるんだが」
「はい」
「例の楽器が出しぱなしになってた時だけど、見つけた時、どうだった?」
「えっと、前の日に妙な音を聞いてたんで、ちょっと早めに見に行ったんです。前の日に、ちゃんと確認してから帰ったのに、サックスルーム開けたら椅子の上に楽器が出てて。気味が悪くなって芦谷先生を呼んで……」
「その時、楽器は吹いてないんだね」
「はい。気味が悪かったんで」
 何故、和馬がそんな事を聞くのか分からないというように、首を傾げた少女に、和馬は満足そうに笑むとゆっくりと口を開いた。
「あと一点。この楽器、今年になってから誰か吹いた?」
「いえ。今、結構楽器が余ってるんで。古いのは使ってません」
「ありがとう。それが聞きたかったんだ」
 和馬のその言葉に、少女はもっとわけが分からないという顔をしたが、説明する気などはなからありはしない和馬は、ただにんまりと笑みを浮かべただけだった。












〜翌日〜



 きいっと、立て付けの悪いドアが鳴いた。
 いつも生徒が練習に訪れるであろう時間の三十分ほど前、和馬と美咲は、昨日仕掛けたエサを収集するべく、部室に来ていた。
 二人は、緊張した面持ちで部屋の中に視線を移す。
「――あ」
「おっ、ビンゴ」
 椅子の上にちょんっと乗っているサックスを見て、和馬は嬉しそうに言った。そして、しかけていったカメラと、レコーダーを回収する。
「ビンゴってねえ、麻生くん」
 状況を楽しんでいるような和馬に、美咲は非難の声をぶつけた。たとえ、和馬のもとで、楽器が勝手に動くことがなくても、部室でこれでは意味がない。
 そんな美咲の声は黙殺して、和馬は、カメラが捕らえていた映像を、早送りでチェックする。すると、カメラが回り始めて三十分ほどたった時、例の楽器ケースだけを捕らえていた画面が突然ゆれた。そして、ケースの金具がかってに外れたと思ったら、次の瞬間、画面は砂嵐になった。テープが切れたわけでも、電池が切れたわけでもないのに、だ。同じように、レコーダーをチェックすると、ちょうど三十分をすぎたあたりから、例の音が入っていた。
 不安げに和馬を見やる美咲に、和馬は肩を竦めた。
「ちゃんと説明するよ」
 言った和馬は、ゆっくりとサックスを手に取った。
「実は。調べてくうちに、妙な事が分かったんだ」
「妙な事?」
 頷いた和馬は、ぽつりぽつりと話はじめた。







「出しっぱなしの楽器」は、実は、毎年同じ時期――演奏会のスケジュールが立てこんでくる秋口に起きていたらしい。亜紀の一つ上の代から、去年までは。
 その時期は、練習で遅くなる部員があとを立たず、楽器を出しっぱなしで帰る、などということがあったとしても、忙しさにまぎれて問題になる事などなかった。たとえ、それが使っていない楽器だったとしても、だ。
 ただ、見つけた人間は「使っていない楽器」である事はわかっている。使っていない楽器が放り出されている以上、一応確認のために壊れていないか吹いてから仕舞っていたという。






「今年、この楽器、一度もケースから出してなかったんだってな」
「え?」
 和馬の言葉の意図が分からず、美咲は首を傾げて問い返した。
「今までは、一年が入ってくる時期には一度は出して吹いてたようだが、今年はやらなかったんだってな。どうせ、春に一台新しい楽器が入ったんだろ? そうすると、古い楽器は用がないからな」
 毎年と同じように、秋口だったら。もしくは、あの少女があの音を聞いていなければ、何の問題もなかっただろう。けれど、少女は両方の現場に居合せてしまった。だから、気味が悪くて吹けなかった。
「吹いて欲しかったんじゃないかな」
 ボソッと言った和馬に、美咲は和馬の手の中の楽器を見やった。
「だとすれば、事務所で何も起こらなかったのも、納得できる。俺じゃ、サックスは吹けないからな。まあ、全てが想像だけどな」
「一度、吹いてみればいいってこと?」
「やってみるだけの価値はあると思うが?」
「そうね」













          §       §       §








 数日後、麻生事務所を訪れた美咲の顔を見るなり、和馬は待ってましたとばかりに問いかけた。
「で、どうした?」
 なんと言っても、『気味が悪い』とまで言われた楽器である。吹いてみれば、と言っても、あの現象を知っている者なら、誰もが吹きたくはないと言うだろう。
「パートリーダーに、事情を話して吹いてもらったわ」
「で?」
「ぴったり止まったわ」
「ほー。本当に止まったか」
 感心したように言った和馬に、美咲は目を丸くした。
「本当にって、麻生くん!」
「いや、マジで止まるとは思ってなかったから」
「……麻生くん」
 思わずこめかみを押さえた美咲に、和馬は笑いながら口を開いた。
「冗談だよ。ま、何にしても、適当に吹いてやったほうがいいんじゃないか?」
「うん。そうみたいね。でも、信じられないわ」
 言いながら、美咲は自分の言葉に何度も頷いた。
 古い――とは言っても、十五年くらい前の楽器だ。けれど、新しい楽器を購入すれば、楽器は古い順に使われなくなる。
 ちょうど、あの楽器は、亜紀の二つ上の代から使われなくなった楽器だった。楽器としては何ら問題はないのに、ただ、古いというだけで、吹き手のいなくなった、自分では鳴れない楽器。
 五年前、和馬も聞いたあの音は、謳えない楽器の泣き声だった。
 そして、朝になると、勝手に椅子の上に出てきてしまうのは、吹いて欲しいという、楽器のささやかな自己主張だったのだろうか――。










後日談  〜半年後〜





 例のサックスは、和馬達の二つ上の(現役時代にあの楽器を使っていた)先輩に安価で貰われていったらしい。
「学校の備品じゃなかったのか?」という和馬の問いに対して、美咲は「あれね、部費で買ったものだったの。だから、学校側からとやかく言われる筋合いないから」と笑いながら言った。そして、こう続けた。
「楽器の価値は、持ち主が決めるものだもの。部室にあったらゴミと一緒。吹いてもらえるほうが、楽器も幸せでしょ?」
 美咲はそう笑っていったが、和馬への報酬が、その楽器代だった事を考えると、なんとなく素直に頷けないものがあった。






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