Summer Snow







 どうか、
 あの人に伝えて。
 本当に、
 あなたが好きだった、
 ――と。












 誰もいない研究室に、カチャンという受話器を置く音が、やけに無表情に響いた。
「また、か」
 どれだけ掛けても留守番電話サービスに転送されてしまう携帯電話に、菅原英介は深い溜息をつきながら、ぽつりと呟いた。
 彼女と ―― 杉本蒼子と連絡が取れなくなって、これで三週間くらいになるだろうか。八月の頭に喧嘩をして以来だからそんなところだろう。
 最初の一週間くらいは、蒼子がまだ怒っているのだろうと、英介も思っていた。けれど、それが二週間、三週間と続くとだんだん、不安が募っていく。
 いや、不安なのは、携帯が繋がらないからではない。それだけなら、こんなに不安になったりなどしない。携帯どころか、自宅の電話すら繋がらないという事実が、英介の不安をあおっているのだ。
 彼女の家には、常時誰かがいるはずである。家の電話に掛けて、誰も出ないなどということは考えられなかった。



 なのに、どの時間帯に掛けても、誰も出ない。
 それが三週間。



 英介は、ついっと掛け時計に目をやると、机の上の資料を片付けた。そして、三週間前から持ち歩いている小箱が鞄の中にあることを確認すると、すくりと立ち上がった。
 ここ数日、やろうやろうと思いながらも出来なかった事があった。「蒼子の家へ行く」という、たったそれだけの事だ。たったそれだけの事なのに、それが出来なかった。ドイツ行きが決定してからというもの、残務整理が後を立たず、残業続きだった事。理由をつければそんな所だろう。
 けれど、それよりも大きい理由は「蒼子の家に行ってはいけない」という思いこみが英介の中にある事だ。
 何か、とても嫌な予感がするのだ。



―― 蒼子の家に行ってはいけない。



 拭えない不安は、この予感にも原因があった。
 けれど、動かなければ、この不安は消える事がない事は、英介自身が一番よく分かっていた。
 英介は鞄を取り上げると、研究室を後にした。













 調子よく車を走らせていた英介は、蒼子の家に近づくにしたがってぼやけてくる記憶に、首を傾げた。
 何度も行ったことのある蒼子の自宅。忘れるはずなどない。なのに、考えれば考えるほど、蒼子の家の場所が解らなくなる。
 次の信号を左折して ―― 。
 いや、右折だったか。
 英介は、一度行ったことのある場所は、確実に記憶している。一度どころか、もう何度も何度も行ったことのある場所を、忘れるはずなどない。なのに、本当にわからない。
 そんな自分に愕然としながら、英介は車を路肩に寄せた。
 不安が、だんだん焦りに変わっていく。
「どういうことだ?」
 ぽつりと呟いたその言葉が、余計に焦燥感を煽った。
 英介は、おもむろに携帯電話を取り出すと、十年来の親友、麻生和馬のナンバーをまわした。
 英介と蒼子を引き合わせたのは、和馬だった。蒼子と和馬はいわゆる幼馴染というやつで、もちろん家も近かった。
『はい、麻生』
 何コールめかで出た、聞きなれた声に、英介はほっとしたように息をついた。
「和馬か? 菅原だけど」
『おう、どうした』
「今近くまで来ているんだ。そっちに寄ってもいいか?」
『別に構わんが……。何かあったのか?』
 突然の英介の言葉に、和馬は怪訝そうな声を出した。
「いや、別に。ちょっと時間が余ってしまってな」
『そうか。で、すぐくるのか?』
「ああ」
『OK』
 和馬の答えを聞くと、英介は電話を切った。
 英介は自分の今いる場所から、和馬の家までの道程を思い浮かべた。和馬の家まではわかる。けれど、その近くにあるはずの蒼子の家を思い出そうとすると、記憶に霧がかかる。まるで何かに目隠しされたように全てが曖昧になるのだ。
 英介は、軽く頭を振ると車を出した。
 ものの五分とかからないうちに、現在は実家を出て一人暮しをしている和馬のアパートに着いた。英介はいつもの場所に車を止めると和馬の部屋へと向かった。
 このアパートには、インターフォンなどという洒落たものはついていない。英介がコンコンッと控えめなノックをすると、室内から「開いてるぞー」という声が聞こえた。
 相変わらずの科白に、英介は嘆息しながらドアを開けた。
「最近は物騒なんだぞ。もう少し気をつけたらどうだ」
「あんな神経質なノックするのは、お前だけだよ。大体この部屋には盗まれて困るもんなんてないしな」
 パソコンの前に座っている和馬は、振り向きもせずいった。
「まったく。おまえという奴は……」
 呆れたように言った英介に、和馬は椅子をくるりと回転させて英介の方を向いた。
「で、なにがあった」
「何がだ?」
「 ―― お前なあ。今にも死にそうな声で電話掛けてきて、何がはないだろ。何があった」
 まっすぐな和馬の視線が、英介を捕らえる。逃れらないその視線に、英介は軽く息をついた。
「おまえは、誤魔化せんな」
「話があるんだろ?」
「……ああ」
 短く答えた英介は、緩慢な動作で靴を脱ぐと部屋に上がりこんだ。そして、いつもの位置に座った。
「聞きたい事があるんだ」
 英介の真摯な瞳に、和馬はおもむろに椅子から立ち上がると、話し込む時の定位置であるベッドの縁に座った。
「何だ?」
「蒼子と連絡が取れない」
「……蒼、子?」
 怪訝な顔をして言った和馬には気がつかず、英介は続けた。
「ああ。今も、家にも行こうとしたんだが、何故か彼女の家に近くなると、どこをどう行ったらいいか分からなくなって……」
「英介?」
「僕がおかしいのは、分かっている。家が分からないなんて」
「いや、あのな」
「電話も、もう三週間も……」
「いや、英介、あのな。蒼子って誰だ?」
「 ―― は?」
 和馬の言葉に、英介は目を見開いた。他でもない和馬が、何故そんな事を言うのか。
「だから、その蒼子ってのは誰なんだ?」
「誰って、杉本蒼子だよ。お前の幼馴染みの」
「おさななじみぃ?」
 怪訝な顔をした和馬に、英介は背筋が凍りついていく感覚を味わった。
「知らない……の、か?」
「 ―― 悪いけど」
 その言葉に、英介は愕然とした。
 和馬に聞けば、何か分かるかもしれないと思ったのだ。
 なのに、その和馬自身が蒼子を知らないという。
「何? お前の彼女か?」
「あ……ああ。だが ―― 」
 まだ、思考が混乱している。
 本当に、蒼子という人間が存在したのか。そんな根本的なところまでが揺らいでいる。


 蒼子は、本当に存在したのだろうか。
 いや……いた、はずだ。
 しかし、いないのであれば、
 だれも電話にでない事や、
 家が分からない事の説明がつく。


「英介、お前、顔色悪いぞ」
「あ ―― 」
 和馬の声に、英介ははっと我に返った。
「……また、出なおしてくる」
「おい、英介。お前、本当に大丈夫なのか?」
 ふらりと立ち上がった英介に、和馬は心配そうに言った。
「大丈夫だ。また連絡するよ」















「あーあ。あいつ、憔悴しきってるな」
 かなりショックだったのだろう。青ざめるを通り越して、既に土色というような顔色をしていた。
「ったく。やっかいな事、押しつけやがって」
 言った和馬はくしゃりと前髪を掻き揚げると、うすぼんやりと現れた白い影を、きっと睨めつけた。
 そんな和馬に、その影 ―― 杉本蒼子は、申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
『ごめんね。和くん』
 空気がゆれ、そんな言葉が和馬の耳に届いた。
「まったくだよ。あいつ騙すとさ、罪悪感の塊になるんだよ」
 和馬が「蒼子ってのは、誰なんだ」と言った時のあの英介の顔。思い出すだけでも、胸が締め付けられる。
「相当、思い詰めてるぞ。あれは」
『……』
「このまま、ほっとくのか?」
 和馬の言葉に、蒼子は俯いた。
「蒼子の頼みだから、今回は嘘をついた。けどな、それは、今のあいつに本当の事を言うとヤバイと思ったからだ」
 電話が繋がらない、と英介は言った。家が分からない、とも……。
 どうやったのかは分からないが、その原因は蒼子らしかった。蒼子は英介に、本当のことを知らせたくなかったのだ。だから、英介の周りにある蒼子という存在を、消しているのだと蒼子は和馬に言った。
 けれど、そんなものは長続きしない。
 それは蒼子自身もわかっているはずだ。
『うん。ごめん。分かってる』
 こくりと頷いた蒼子は、力なく笑んだ。
「蒼子」
『英介さんには、私のこと、忘れて欲しいの』
「なら、自分の口からそう言えよ」
『ダメ。こんな姿で、英介さんには、会えない』
 言った蒼子に、和馬は深い溜息をついた。蒼子が和馬の前に現れたのが、二週間前だった。以降、平行線をたどりつづける会話。どれだけたっても、そこから話が動かない。
『あの人はやさしい ―― やさしすぎる。だから』
「でもな、蒼子。あいつが、それで忘れられるとでも思ってるのか?」
『……』
 和馬の言葉に、蒼子は何も言えずにただ沈黙を返した。
















 二週間前、蒼子は死んだ。
 その間接的な原因に、三週間前の喧嘩があった事は否めない。その喧嘩の原因というのも、本当に些細なことだったのだが……。






 蒼子は英介に話があるから、と呼び出された。けれど、いつまでたってもその話題には触れようとはしない英介に蒼子は重い口を開いた。
「話って、何?」
 そう切り出した蒼子に、英介は進行方向を見たまま「食事の時にゆっくり話すよ」と言った。
 わざわざ、何かと問わなくても、蒼子には凡その見当がついていた。多分それは、蒼子が今一番気がかりで、それでいて、聞きたくない事。それなのに、蒼子はその聞きたくない問いを英介に投げかけた。
「 ―― ドイツ、行くの?」
 その言葉に、英介は驚いたように蒼子をちらりと見やった。妙な沈黙が、二人の間を流れた。
 車のエンジンの音がやけに煩く感じられる。
 目の前の信号は赤だった。英介はゆっくりと減速した。
「あとで、言おうと思ってたんだけどな。一応、決定したよ」
「一応?」
「ああ。まだ、正式に返答をしていないからな」
「でも、決まったのよね。 ―― おめでとう」
 にっこりと笑みを浮かべたつもりではいたが、それが出来ていたか、蒼子は自信が持てなかった。けれど、そんな蒼子の微妙な表情の変化に、英介は気づかなかった。
「――ありがとう」
 青になった信号に、アクセルを踏みこむ。
「だけど、まだ、行くと決めたわけではないんだ」
「 ―― どういうこと?」
 ドイツの研究機関から研究者として来て欲しいと、声が掛かったとき、実に嬉しそうに蒼子に報告してきてたのは、他でもない英介だ。その英介が、何故、今更ドイツ行きを躊躇するのだ。
「迷ってるんだ」
「どうして? 迷う事なんてないじゃない」
「向こうへ行ったら、いつこっちに戻って来られるかも分からないからさ」
 曖昧な笑みを浮かべた英介を蒼子はじっと見やった。



 一緒に来て欲しい、とは、英介は言わない。
 一緒に行きたい、とは、蒼子は言えない。



「……もし、私のこと気にしてるんだったら」
「いや ―― そういうわけじゃ」
 うろたえる英介自身が、その言葉を肯定しているように、蒼子には見えた。
「あの、な。蒼子」
「だって、チャンスなんでしょ? 私のことなんか、気にしてる場合じゃないと思うの」
 蒼子はきゅっと唇をかんで、ともすれば涙がこぼれてしまいそうな、弱い自分を戒めた。
 ぽつり、ぽつりと雨が落ち出した。
 ワイパーがぬぐっていく水は、まるで今こらえた涙のように蒼子には見えた。
「いや、だから、そうじゃなくて」
「もういい。車、止めて」
「蒼子?」
 黙りこんでしまった蒼子に、英介は軽く息をついた。そして、後ろを確認しながら、路肩に車を寄せた。
 蒼子はすぐさま車を降りた。
「蒼子っ」
 雨はだんだん、その量をふやしている。
「しばらく、会いたくない」
 ぽつりと言った蒼子は、バンッとドアを閉めると雨の中、傘もささずに街の中に消えていった。










 雨に打たれて、熱を出した。
 普段ならば、それ自体はとくに問題ないはずだった。けれど、このところ体調がよくなかったのだ。喘息持ちの蒼子にとって、体力の低下と発熱はあまりよいものではなかった。
 高熱は、じわりじわりと蒼子を蝕み、そこに喘息の発作が襲った。そして追い討ちをかけるように肺炎を併発し、そして、気がつけば、こんな姿になっていた。
 後で思えば、あの時英介は、しきりに何か言おうとしていたのだ。けれど、聞こうとしなかったのは蒼子の方だ。自分が傷つく事だけを恐れていた。
 英介は何も言ってくれなかった。それが不安で仕方なかったから ―― 。
 だから、自分から切り捨てた。
『バカみたい……』
 ぽつりと呟いた蒼子の声は、あたりに広がった。






















 あれから、さらに一週間がたった。
 英介は明日、日本を発つ。
 もう今日しか時間がなかった。

 一枚の写真を封筒に入れた英介は、部屋を出て和馬の部屋に向かった。
 あれから、何度か蒼子の家に行こうと試みたが、結局行けず仕舞いだった。
 和馬の部屋の前で、一瞬躊躇した英介は、気を取りなおして、ノックした。しばらく待ったが返事はなく、もう一度ノックしようと手を上げた時、ドアが開いた。
「どうした?」
 いきなり来た英介にも、驚いた様子も浮かべず、和馬は言った。
「ちょっと、話があるんだ」
「あがれよ」
 言った和馬に、英介は首を横に振った。
「今はあまり時間がないんだ。和馬、もう一度聞くが本当に蒼子を知らないのか?」
「――まだ言ってたのか。蒼子なんて女は」
 英介は言いかけた和馬の目の前に、ずいっと一枚の封筒をつきつけた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「知らないか?」
 和馬は受け取った封筒の中を見て、苦虫を噛み潰したような顔をした。五年くらい前のものだろうか。大学のキャンバスで笑っている三人が焼きついた写真だった。
 蒼子は、あまり写真が好きではなかった。その蒼子が写っている写真でもまれなのに、まさか和馬までも一緒に写っている写真があるなど、思いもしなかった。
 もう言い逃れは出来ない。
 和馬は、深い溜息をつくと、その写真を英介に返した。そしてゆっくりと口を開いた。
「 ―― 蒼子はいない」
「なら、どこに」
「蒼子は死んだ」
「は?」
 一瞬、和馬が何を言ったのか、英介には理解できなかった。ゆっくりと、口を開くともう一度と問う。
「今、なんと言った?」
「蒼子は、死んだ」


 蒼子は、死んだ ―― 。
 確かに、和馬はそう言った。
 とても、冗談で言える言葉ではない。
 それが分かっていながら、
 どうしても信じる事が出来なかった。


「 ―― 死ん、だ?」
 呆然として繰り返した英介は、まじまじと和馬を見やった。
「何をバカなことを」
「……」
「本当 ―― なのか?」
 言いながら、だんだん力が抜けていくのを感じた。
 冗談で言えることではないと分かっていながら、それでも和馬が否定してくれる事を、心のどこかで祈っていた。けれど、和馬が英介の欲しい言葉をくれる事はなかった。
「冗談でこんな事が言えるか」
「……いつ?」
「三週間くらい前だ」
 三週間、と繰り返した英介の脳裡には、雨の中街に消えていった蒼子の姿が思い浮かんだ。
「お前に連絡しなかったのは、それが蒼子の最期の願いだったからだ」
「……」
 黙りこんでしまった英介に、和馬は深い溜息をつくと「あがれよ」と奥を指差した。呆然としたまま、英介は促されるままに部屋に上がった。
 定位置に身を置いた英介は、先ほどの和馬の科白を反芻した。
 連絡しない事が、蒼子の願い――。
 何故、蒼子はそんな事を言ったのか。英介には、理解できなかった。
「蒼子は、何故……」
「直接原因は肺炎らしい」
「肺炎――」
 呟いた英介は、最後に見た蒼子の後姿を思い起こした。
 ずぶぬれになって、駆けていった蒼子……。
「まさか……」
 思い当たる、一つの事象。
 蒼子は決して、丈夫な方ではなかった。それこそ、単なる風邪一つでも、大事になりかねない事ぐらい、英介も分かっていたはずだ。
「原因は、あの雨か?」
「詳しくは知らない。けど、原因なんて、関係ない」
「いや。でなければ、蒼子がそんな事を言う理由など……」
 思い当たらない。
 あの雨に打たれたことで、風邪でも引いたのであれば、それは完全に英介の所為だ。それが原因であったなら、蒼子は、それを英介に隠そうとするかもしれない。英介に責任を感じさせないために……。
「あのな、間違えないで欲しいんだ。お前の所為で蒼子は死んだわけじゃない」
 和馬は、まっすぐに英介を見据えて言った。そして、大きく息を吸うと続けた。
「ただ、蒼子は、お前を縛り付けたくなかっただけだ。蒼子がいたという痕跡を消せば、うまくいけば、お前は蒼子を忘れてくれるかもしれない。だから、蒼子は俺に、お前を騙し通してくれと言った」
「だが、そんな嘘は、いつか ―― 」
「ああ。いつかはばれる。けど、お前がいずれ日本を離れることは、分かっていた。それまで、誤魔化せれば蒼子はそれでよかったんだよ」
「そんなバカなっ!」
「忘れて欲しい、それが蒼子の願いだったからな」
 電話も繋がらない、家も分からない。こんな状態ならば、英介が、蒼子の幻影を追う事をやめてくれるのではないか、蒼子はそう思っていたのだろう。
 やりきれない思いを抱え、英介は天井を睨めつけた。








 河原の土手に座って、空を眺める。
 星がとてもたくさん出ていた。


 もう、八月下旬だが、まだまだ暑い。昼の暑さは、まだ尾を引いていた。
 和馬は、蒼子の白い影 ―― 残留思念に英介に嘘をついて暮れと頼まれたと言った。けれど、その残留思念すら、英介の前には姿を現してくれなかった。
「蒼子」
 あたりに蒼子の気配を感じた気がして、英介はぽつりと呟いた。けれど、当然返事はなかった。返事がないことが分かっていながら、英介は続けた。
「 ―― 僕には、姿も見せてくれないのか」
 言った英介に、あたりの空気がゆれた。そして、その直後、うすらぼんやりと現れた白い影に英介は目を細めた。
「そう、こ?」
『ごめんなさい。英介さん』
「どうして、謝るんだ? 謝らなければならないのは、僕の方だ」
『でも ―― 』
「姿を見せてくれただけで、僕は満足だよ」
 何とか、蒼子の輪郭を保っているその影に向かって英介は言った。
『どうしてそんなに、やさしいの?』
「優しくなんかないよ。ずるいだけだ」
 言って、自嘲気味な笑みをその口元に乗せる。
「お前は、僕に忘れて欲しいみたいだけど、僕は忘れるつもりはないから」
『英介さんっ』
 蒼子の咎めるような声に、英介は薄く笑みを浮かべた。
「忘れるなんて、出来るはずがないだろう?」
『 ―― 英介さん』
「僕の気のすむようにさせてくれ」
『でも、本当に、英介さんの所為じゃないの』
「いや。あの時お前を止められていたら、結果は変わっていたよ。きっと」
『そうじゃないっ、そうじゃないのっ!』
「蒼子」
 英介は、まっすぐに蒼子の影を見やった。どれだけ、悔やんでも、もう時間は元には戻らない。だから、今の英介にできる事は、蒼子を忘れない事。
 たとえ、それが蒼子の本意でないとしても。
「僕は、蒼子を偲ぶ事も許されないのか?」
『……』
「明日、日本を発つ」
『ドイツに?』
「ああ。本当はあの時、お前に渡そうと思っていたものがあったんだ」
 英介は言いながら、ポケットの中から、小さな箱を取り出した。そして、それをずいっと蒼子に差し出す。それを見た瞬間、蒼子は息を飲んだ。
『 ―― 英介さん』
 そう呟いた蒼子の目から、涙がこぼれた。






 ごめんなさい。
 ごめんなさい。ごめんなさい。




 声にならない蒼子の声が、あたりの空気にとけこんだ。
「蒼子。僕はそれほど、弱い人間ではないつもりだ。お前を、こんなところに縛り付けるわけにはいかない」
 英介の言葉に、徐々に蒼子をかたどっている白い影が薄れていった。それは、英介の手にあった箱を飲みこむと、霧散して、ふうわりと空に昇った。




―― 英介さん。
   ごめんなさい。
   ありがとう。





 そんな蒼子の声が聞こえたような気がした。
 ふと、上を見上げると、空から、白い光が降ってきた。
 満天の星空から降るそれは、
 まるで、夏の夜に降る雪のようだった。



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