はじまりの夏









 暑かった。
 湿気を多量に含んだ空気はねっとりと重く、暑さに拍車をかけていた。
 名古屋の夏は暑い。いや、別に名古屋だから熱いというわけではないのかもしれないが、この湿度の高さと、最低気温と最高気温の落差はたまらないと思うのだ。なまじ、朝が涼しい分だけ、昼中の暑さが際立つのだろう。
「何で、こんなに暑いんだ……。冗談じゃない」
 言いながら、麻生和馬は、容赦なく照りつける太陽を睨めつけた。
 もう、とうに大学は夏休みに突入している。本来なら、わざわざ大学に来る必要などないはずなのだが、ゼミの合宿の件で呼び出されたのがいけなかった。午前中のまだ、比較的涼しい時間帯ならば特に問題はなかったのだろうが『夏休みの午前中になんか、大学にいけるか!』とほざいた馬鹿者のために、集合が午後からになってしまったのが災いした。
 無いよりまし程度の冷房でも、一応ついているキャンバス内はまだましで、一歩外に出れば、灼熱地獄だった。
 もともと、和馬は暑さに弱い。だから毎年、夏になると、この暑さゆえに名古屋には居たくないと思う。
「早く事務所に戻ろう」
 ぽつりと呟いた和馬は、額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐった。と、丁度その時、ポケットの中に無造作につっこんでいた携帯がなった。
 和馬は、緩慢な動作で携帯を取り出すと、小窓の表示されている発信者名を確認した。そこには『澤村博貴』の名前があった。その名前を見た瞬間、和馬は思わず溜息をついて、受話ボタンを押した。
 なんだか、しゃべる事も億劫で一言だけ口に乗せる。
「なんだ?」
『なんだ? って、和馬さん、機嫌悪いね。ああ、そうか。暑いから』
 あっけらかんとして言った博貴に、和馬は思わず脱力した。いつもなら、ここで一言くらいは言い返したりするのだが、そんな気力もなく、和馬は話を進める事にした。
「――用件は?」
 短く言った和馬に、本当に機嫌が悪い事を察知したのか、博貴はあっさりと用件を口にした。
『光輝さんが事務所に来てるんだ』
「兄貴が?」
 和馬は驚いたように声をあげた。
 兄――麻生光輝が、事務所に姿を見せたのは、一体何ヶ月ぶりだろう。
『うん。和馬さん、もう帰ってこれる?』
「ああ。これから帰るところだった。兄貴は?」
『今、お客さんと話してるよ。まだしばらくは居ると思うけど……』
 語外には、いつまた光輝が事務所を出て行ってしまうかは分からない、というニュアンスが含まれていた。
 麻生総合事務所は、光輝が趣味と実益を兼ねて開業した、探偵事務所のようなものだった。いや、探偵とは少し趣が違うかもしれない。ようは厄介ごと引き受け業――便利屋である。
 だが、その所長たる光輝は、長期にわたって事務所を開ける事が多いのだ。実際、この事務所でバイトをしている和馬ですら、光輝の姿をこの数ヶ月見ていなかった。
「すぐ戻る!」
 言った和馬は、即座に携帯を切った。
 同業者の中でも「厄介事は麻生事務所へ」そんな標語がささやかれている昨今、手元に来る依頼はとてつもなく面倒なものばかりだった。
 光輝自身が、そういう厄介な依頼を好んで受ける傾向があるため、それに拍車がかかるのだろうが――。いやそんな事は問題ではない。問題は、光輝が不在だったとしても、光輝が受けた仕事の半分は和馬がこなさなければならないという事実だろう。
 まず事務所に居つかない光輝が、事務所に居る。ならば、この数ヶ月間に溜まった苦情の一つも聞いてもらわなければ、割に合わない。
 ちらりと時計を見やった和馬は、セカンドバックをしっかりと持ち直して、地下鉄に向かって走り出した。
 大学を出ると、結構な人通りがあった。夏休みを目前に控え、どこか浮き足立った高校生をやり過ごしながら、和馬は走りつづけた。走り出したのと同時に、汗がそこかしこから噴出したが、そんな事にはかまっていられなかった。
 後、ひとつ辻を曲がったら、地下鉄だ。辻を曲がった和馬の目の前に、友達としゃべりながら、後ろを向いたまま歩いている女子高生の姿が見えたのは、少しホッとしながら、速度を緩めた時だった。不味いと思ったときには、既に遅かった。
「うわっ」
「きゃあっ!」
 そんな声とともに、少女がどすんと尻餅をついた。
「わるい。大丈夫か?」
 よろけただけの和馬は、焦りながら、すっと少女に手を差し伸べた。差し出された手に、一瞬戸惑いを見せた少女は、そのまますくりと立ち上がった。そして、スカートをパンパンっと払いながら言った。
「大丈夫です。ごめんなさい。私、全然、後ろ見てなかったから」
「いや、俺も急いでて。悪かった」
「いえ。気にしないで下さい」
 言ってにっこりと笑った少女に、和馬は頭を下げると「ごめん、急いでるから」と言い残して、地下鉄乗り場に走った。

†      †      †


 出来るだけ急いで事務所に戻りはしたものの、なんとなく、光輝は既にいないのではないかという予感がしていた。ぶんぶんと頭を振って、そんな考えを頭の中から追い出した和馬は、事務所のドアを開けた。
「和馬さん、ごめん!」
 事務所の中でうろうろとしていた博貴は、和馬の姿を認めると即座にそう言った。 そんな博貴の言葉に、和馬は自分の予感が的中した事を知った。
「俺が、和馬さんに電話してたの気が付いてたみたいで……。光輝さん、ついさっき、帰っちゃった」
 申し訳なさそうに言った博貴に、和馬は小さく肩を竦めた。いつもマイペースな光輝のことだ。別に、博貴の電話で出て行ったわけではないだろう。ただ単に、用事がなくなったから、出かけただけの話だ。
「仕方ないだろ、それは」
「んでも……」
「なんだ、珍しいな。お前が、そんな風に気にするなんて」
 言いながら事務所の中に入った和馬の首もとを、ふわりっと冷たい空気が触れた。外の暑さとはうって変わって、事務所の中は快適温度だった。
「あの、さ。光輝さんから、これ――」
 言いながら、博貴が一枚の紙を和馬に手渡した。ちらりとそれを見やった和馬は、次に続くであろう博貴の言葉を待った。
「さっき来てた人の依頼らしいんだけど、二人で行って来いって」
「――やっぱりか」
 依頼内容が書かれた書類を見やり、和馬は深い溜息をついた。こんな書類が既にそろっているところを見ると、この依頼の詳細を聞いたのは、今日というわけではないのだろう。正式な契約で事務所に客を連れてきたのならば、最初から今日は光輝は事務所に来るつもりだったろう。
「ったく、兄貴のやつ。来るなら来るって、先に言えよな」
「光輝さんが、この仕事は和馬さん向きだって言ってたよ」
「何が、俺向きだ。自分が面倒だから、俺に押し付けただけじゃないか」
 光輝が作っていった書類を見る限り、それほど簡単な依頼だとは思えない。
「っていうか、依頼内容じゃなくてさ」
「依頼内容じゃない?」
「気が付いてない? 軽井沢なんだよ。行き先」
「軽井沢?」
 言われて、和馬は慌てて書類を斜め読みした。すると、最後の行に『8/3〜8/9軽井沢』と書いてあった。 
「和馬さん、暑いの嫌いだろ? だからだってさ」
 博貴の言葉に、和馬は思わずこめかみを押させた。いくら暑いのが嫌いだからといっても、クーラーの効いた事務所で生活する分には、何の支障も無い。そんな事は光輝も百も承知のはずだ。にもかかわらず、あえて和馬に振ってきたところをみると、きっと、面倒なことになる、そんな予感があったのだろう。
「ったく、あの狸が」
 ぎりっと歯噛みして言った和馬は、手の中にあった紙をぐしゃぐしゃにして、そのへんに投げ捨てた。
「博貴」
「何? 和馬さん」
「旅行の用意しとけよ」
「あ、案内いるんだったら、言ってね。あっちの方、地元だし」
 言われて、博貴が長野出身だったことを思い出した。
「必要ないとは思うが、いったら頼む」
「了解。あ〜、なんか楽しみだなあ。あっちはいいよ。涼しいし」
 実に嬉しそうに言った博貴に、和馬はただため息をつくだけだった。


END