それは、ノックというにはあまりにも乱暴な音から始まった。



















招かれざる客









 ガンガンっと、まるでドアが叩き破られるのではないかと疑いたくなるほど大きな音が、午後のまったりとした空気を孕んだ麻生総合事務所あそうそうごじむしょ内に響いた。総合事務所とはいっても、ようは、厄介ごと引き受け業――便利屋である。同業者の中でも、「厄介事は麻生事務所へ」そんな標語がささやかれている昨今、手元に来る依頼はとてつもなく面倒なものばかりだった。
 この事務所の「所長」は例の如く不在で、やむを得ず受けた依頼を、つい昨日――いや、明け方まで掛かって済ませた。その報告を朝一で依頼主に済ませた麻生和馬あそうかずまは、目の前にいない「所長」であり「兄」でもある麻生光輝あそうこうきに一通り文句を言った後、爆睡状態に入った。もともと、この二日間は寝ていなかったのだから当然と言えば当然なのだが。
 だが、そのそのけたたましい音は、和馬の貴重な睡眠を邪魔した。ソファーでうとうととしていた和馬は、あまりに騒々しい音にビクッと跳ね起きた。そして、何がおこったのかと、きょろきょろとあたりを見回す。その音が、事務所のドアを叩く音だと認識するまで数秒を要した。
 確か眠る前に、本日休業のプレートは事務所の外に出したはずだ。第一、こんなところに依頼に来る客と言うのは、自分の手におえない非日常を携えてやってくる。その客が、こんな乱暴な来訪をする事は、ない。
 が、それに追い討ちをかけるように、そのドアを叩く声は続いた。
 和馬は、くしゃりっと前髪をかきあげると、めんどくさそうに、ドアを見やった。このままやり過ごせば、諦めて帰っていくだろうか。そんな、とても客商売とは思えない事を考えていた時、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「和馬さん、いるんだろ? 開けろよっ!」
 その声に、和馬は思わず顔を顰めた。そして、すこし思案すると、そのままソファーに倒れこんで毛布を頭までかぶった。面倒なことは放っておくに限る。特にこの声は危険だ、と、和馬の感が告げていたのだ。
「か〜ず〜まさんってば。いるんだろ?」
 居留守を使われていると信じて止まない――いや、実際にそうなのだが――その声は、しばらく続いた。
 いつまでも続くその声に、いいかげん辟易してきた和馬が重い腰を上げかけたとき、ドアの向こうの気配が消えた。どうやら、やっと諦めたらしい。
 和馬は小さく息をつくと、ゆっくりと立ち上がってドアに歩み寄った。そして、外の気配をうかがいながら鍵をはずし、そおっとドアを開けた。ほんの少しの隙間から、あたりをうかがう。廊下に人の姿はなかった。
 ほっとしたように息をついた和馬は、そのままドアを閉めようとして、なにやら引き戻される力に気がついた。よくよく見れば、ドアの端に自分のものでない手がひっかかっている。
「居留守なんて、子供っぽい事すんなよ」
 そんな言葉とともに、ドアは強引に開かれた。
 そこには、満面の笑みをたたえた澤村博貴さわむらひろたかの姿があった。
「博貴……」
 博貴は、一年ほど前受けた依頼の関係者だった。一年前は、まだ子供っぽさの残る顔立ちをしていて、少年といっても差し支えない印象だったが、そんな印象はきれいになくなっていた。背も、いくらか伸びたようで一年前は少し下にあった目線が、今は同じ位置にあった。
 一年前の事件の時「来年は名古屋に行く」とか「麻生事務所でバイトする」とか言っていたが、まさか本当に来るとは思わなかった。いや、人づてに博貴が名古屋の大学に受かったと言う話は、ちらりと聞いていたので、その可能性を考えなかったわけではないが、大学が始まって一ヶ月がたっても何の音沙汰もなかったため、すっかり忘れていた。
「なんか、用か?」
「あ、その言い方、傷つくなあ。せっかく、来たっていうのにさ」
「誰も来てくれとは言ってない」
 言いながら、和馬はドアを閉めようとしたが、博貴の手が邪魔していて、それは出来なかった。できることなら締め出したい、そんな和馬の意思を察して、博貴は強引に事務所に入った。
「おいっ!」
 咎めるような和馬の声も無視して、博貴はさっさとソファーに腰をおろした。
「なんだ、和馬さん寝てたのか? こんな時間に」
「……悪いか。二日間貫徹だったんだ」
「ああ、だから不機嫌なんだ」
「……」
 言われて、和馬は前髪をくしゃりとかきあげた。
 よくよく考えれば、あんな起こし方をされた事以外で、博貴を締め出す理由などない。ないのだが、それが分かっていても無性に苛ついた。
「悪いが出直してくれ」
「え? いいよ。和馬さんは寝ててくれていいからさ」
 その言葉に、和馬はすいっと眉を寄せた。博貴の言動を見る限り、依頼をしにきたわけではないようだ。和馬は、ソファーに座っている博貴を真っ直ぐ見やり言った。
「……お前、一体何しに来たんだ?」
「何って、バイト」
「バイト?」
 不審そうに言った和馬に、博貴は首を傾げた。
「そう。あれ? 光輝さんから聞いてない? 一応、光輝さんの許可貰ったんだけど」
「兄貴の?」
「今日からだって聞いたんだけど?」
「ちょっとまて」
 思わず眠気も吹っ飛んだ。一体、この事態をどう説明すればいいのだろうか。
 この、1年ぶりに顔を見せた青年は、和馬ですらもう、半年以上姿を見ていないこの事務所の責任者――光輝から許可をもらって、バイトに来たというのだ。
 だが。この事務所に、それほどの人手がいるのだろうか。常時、所長不在のこの事務所は、それほど多くの仕事をこなすわけではない。一応光輝の伺いを立ててからしか、依頼は受けないし、面倒そうな依頼は、光輝不在の場合はほとんど受けることがない。和馬ですら、バイトとして必要なのかどうか分からない時もある。ただ、依頼を受けた時の実働部隊として必要なだけで、常勤する必要などないのだ。
 と、ちょうどその時、電話が鳴った。博貴はすくりっとソファーから立ち上がり、何のためらいもなく、受話器を上げた。
「はい、麻生総合事務所です。あ、光輝さん」
「なんだって?」
 和馬は、博貴の手から受話器をもぎ取った。
「兄貴? ――久しぶりって、そんな事どうでもいいんだよ。どういう事だよ、これは! バイトなんて、必要ないだろ? ――――え?メール?」
 和馬は受話器を肩とあごに引っ掛け、あわててPCの電源を入れる。そして、立ち上がると同時にメールチェックをした。数10件のメールのうち、光輝からのメールが2通入っていた。1通目は、今日終えた依頼の調査を、光輝に頼まれてはじめた直後。そして、2通目は、昨日の昼間だった。1通目には、博貴をバイトで雇う旨が書いてあり、もし必要なければ連絡する事とあり、2通目には、今日の2時に博貴が事務所に行くからちゃんと事務所にいるように、という内容だった。
「ちょっとまてよ。メールなんか見てないぞ、俺は。――見ないほうが悪いって、そんな事言ったってなあ、あんな面倒な調査を――」
 言いかけて、和馬は口を閉ざした。
 面倒ではあったが、それほど難しくはない調査。だが、それは今日の朝10時までという期限が切られていた。危険も伴わないし、光輝にしてはまともな仕事を回してきたと思っていたのだが、どうやらそれは違ったらしい。
 時間との戦いとも言える依頼なだけに、和馬はこの2日不眠不休で働いた。しかも、ネットを使って調べられるような事でもなかったため、この2日間PCの電源は入れていない。というよりも、そんな時間はなかったのだ。そんな事は光輝が一番よくしっているはずなのだ。

 ――また嵌めやがった。

 和馬は思わず舌打ちをした。要するに、和馬がメールを見ないことも、今日の午後は事務所で爆睡していることも、光輝の計算のうちだったのだ。
「――ああ。わかった。もう、好きなようにしてくれ」
 突如襲われた脱力感。
 和馬は、深い溜息とともに受話器を下ろした。
 何処までが仕組まれているのか、既に分からない。博貴にしても、一体どうやって、光輝と連絡をとったというのか――。
「あ、言っとくけど、光輝さんが俺に連絡してきたんだからな」
 和馬の表情を読み取ってか、博貴が言った。
「なんでだよ」
「そんな事俺が知るわけないだろ? あ、でもな、俺がいれば、和馬さんもむやみに依頼を断ったりはしないだろうってさ」
「ちょっと待て! 俺がいつむやみに依頼を断ったっていうんだ」
 聞き捨てならないとばかりに言った和馬に、博貴は肩を竦めた。
「和馬さん、光輝さんがいないと、依頼断ることがあるだろ?」
「ってなあ、この事務所は兄貴のだぞ。俺はバイトで、依頼を受ける権限なんてありゃしないんだ!」
「ま、細かい事はいいとして、これからよろしく頼みます」
 ぶつぶつ言っている和馬を無視しつつ、ペこっと頭を下げた博貴は、人好きのする笑顔を乗せていった。そんな表情は、まだまだ子供っぽさが残っていた。
「それにしてもさ。感動の再会とまではいかなくても、『久しぶりだな』くらいは言ってくれると思ったのになあ」
 真面目な顔をしてそう言った博貴に、和馬は軽い頭痛を覚えた。
 そして、この日以後、この頭痛はある意味慢性的なものになるのだが、それはまた別の話になる。


END