【さよならを告げた夜に】

〜ロイSide〜














 机の上に山と積まれた書類を、ようやく片付けたロイは、小さく息をつくと、トントンっと肩を叩きながら口を開いた。
「まったく。無能な上のおかげで、予定が大幅に狂ったではないか」
 ホークアイあたりがここにいたら、即座にクレームが入るようなロイの科白は、静かな室内に、思いのほか大きく響いた。だが、予定外の仕事を上層部から差し込まれ、やりたくもない残業を余儀なくされたのだ。少しくらいの文句は許されるだろう。
「さて。帰るか」
 言いながら、ゆっくりと立ち上がったロイが、部屋を出ようとすると、机の上の電話がけたたましく鳴った。
 それを見やり、ロイは思わず、眉を寄せた。
 こんな遅くに掛かってくる電話に、まともなものがあるはずがない。普段ならば、こんな時間に執務室に人がいるなどということは、まずないのだ。ならば、このまま無視してしまっても、さほど問題はないだろう。
 そんな事を思いながら、そのまま部屋を出ようとしたロイは、ノブに手をかけたところでその動きを止めた。
 なんとなく、出た方が良い、そう思えたのだ。
 小さく息をついたロイは、くるりと踵を返すと、受話器を取り上げた。
 一呼吸置いてから名乗ろうとしたその瞬間、受話器から、聞き覚えのある声がこぼれた。
『えっ? なんで――』
 ギョッとしたように言った電話の主に、ロイは思わず目を細めた。
「――その声は、鋼の、か?」
『あ、ああ』
 ロイの言葉に、電話口の向こうのエドは、些か決まり悪そうに短く言った。
 何故、こんな時間に、エドがここに電話をかけてくるのか。何か、火急の用件でもあったというのだろうか。だが、エドのこの反応からは、そう言ったものは見えてこなかった。
 ならば、それほど心配する事もないだろうか。
 そんな事を思いながら、ロイは受話器を持ったまま、すとんと椅子に座った。
「どうかしたのか? こんな夜中に」
『……大佐こそ、まだ、仕事してたのか?』
「ああ。片付けなければならん書類が山積だったのでね」
 言ったロイは、それに続くであろうエドの言葉を待った。
 だが、予想に反して、エドはただ沈黙を返しただけだった。
 普段のエドならば、ここで『あんたが仕事をしないからだろう』くらいの憎まれ口を叩くだろう。それが、一体どうしたというのか。いつもとは違うエドの反応に、ロイは苦い笑みを浮かべた。
 そういえば、昼中に、報告にこの部屋に訪れた時も、どこかいつもより大人しかったように思う。エドのいつもとは違う反応に、些か戸惑いを覚えながら、ロイはぽつりと呟いた。
「どうも調子が狂うな」
『へ?』
 わけが分からないというように言ったエドに、ロイは「いや。こちらの話だ」と短く返した。そして、ちらりっと時計を見やると、さらに続けた。
「何か、急用でもあったのか?」
『そういう訳じゃないけど』
 どこか困ったように言ったエドに、ロイは薄い笑みを浮かべながら言った。
「ならばなんだ? 私の声が聞きたかった、とか?」
『ばっ、そんなわけねぇだろっ!』
 先ほどまで静かだったエドが、ぎゃんぎゃんっと吠えた。
 そんな、いつもと同じエドの反応に、ロイは満足げに笑いながら言った。
「冗談だよ」
 からかわれたと悟ったのか、エドはふんっと鼻を鳴らして言った。
『まさか、いるとは思わなかったんだよ……』
「いないと分かっている人間に、電話を掛けても意味がなかろう?」
『……』
「鋼の?」
 突然流れた沈黙に、ロイは訝しげに首を傾げながら言った。
 そんなロイに、うっと言葉を詰まらせたエドは、小さく息をつくとゆっくりと言った。
『あのさ。謝ろうと思って』
「何をだ?」
 いきなりのエドの言葉に、ロイはわけがわからず問い返した。
 エドに、謝られるような事が、何かあったのだろうか。どれだけ考えても、思い当たる事柄はなかった。
『あんたには、関係ない、なんて言って――』
 そんなエドの言葉に、ロイは「ああ」っと短く言った。
 そういえば、そんな事を言っていたような気もする。だが、何故、そんな事をエドが気にしているのかが分からなかった。
「その事か。そんな事を気にしていたのか?」
『そんな事ってなあっ!』
「そう、いきり立つな。第一、今更だろう? それくらいの科白なら、鋼のの口から何度聞いたかわからんぞ」
『そうだけど……』
 言葉を濁したエドに、ロイは思わずくすりっと笑い声を漏らした。
 それが、気になっていて、こんな遅くに、こんな所に電話をしてきたのだろうか。それこそ、明日には、彼らはこのイーストシティから離れてしまうから――。
 そんなエドが、なんともいとおしく思えて、ロイはすうっと目を細めながら口を開いた。
「今度は、いつ戻ってくる?」
『まだ、わかんねぇよ』
 そんなエドの答えに、ロイは小さく息をつくと言った。
 ここを離れた後の、彼らの行動は、ロイにはまったく分からない。何処で、何をしているのか。いつ戻ってくるのか。どれをとっても、何一つ分からないのだ。
 ロイにできる事は、ただまんじりと待つ事だけ。
 それでも、手足を失ったエドが、国家錬金術師となる為に、ロイを訪れたあの時ほど、待たされる事は、この先ないだろうが。
「定期報告くらいは、入れるように。――皆が、心配する」
 言ったロイの言葉に、エドは即座に『分かった』と返した。
「まあ、あてにはしておらんがな」
『いちいち、むかつくヤローだなっ!』
「元気なようだな」
 すぐに噛み付いてきたエドに、ロイは安堵したように言った。
『へっ?』
「いや。なんでもないよ」
 どこかおかしいと感じたのは、多分、気のせいだ。
『大佐はまだ、仕事すんのか?』
「いや。ちょうど、帰る所だったからな」
『ふうん。ま、いいや。じゃあ、また、な』
「ああ。また」
 そんな言葉から、一呼吸置いて、通話が切れた。
 小さく息をついたロイは、受話器を戻すと、うんっと大きく伸びをした。
「また――か」
 『また』などという言葉は、軍属である以上、あり得ない言葉だ。それなのに、その言葉がこれほど嬉しいなど、自分もずいぶんヤキが回ったものだと思いながらも、ロイは満足そうな笑みを浮かべた。







END